君の名は。について、(たぶん)どこよりも詳しく解説してみました!
君の名は。について、(たぶん)どこよりも詳しい解説を書いてみました。 君の名は。が、多くの人々の予想を超えてメガヒットしたせいで、「凡作が宣伝工作のお陰でヒットした」とか、「ヒットしたから連鎖的にヒットしただけで中身は無い」という説をとなえる人が増えてきたように思います。たくさんの人が見ているため「あそこの描写が不十分だ!」「ここに矛盾がある!」などといったツッコミも目に見えて増えてきました。
君の名は。は、全体的なあらすじはシンプルですが、細部には、初見では意図が読み取れないような謎の描写が多数あります。この作品は、表面上シンプルにみせかけつつも、実は裏にもっと深いテーマをもった作品です。予想以上にメガヒットしたせいで、逆に凡作認定されるというのも、なんだか忍びないと思いまして、私の分かる範囲で作品の裏に隠されたものついて分析してみました。これから、君の名は。を、2回、3回と観る人にとって、この作品が「宣伝工作による凡作のゴリ押し」ではなく、深みのあるバックグラウンドを持った歴史にのこるべき傑作だと言う事が、少しでも多くの人に広まってくれればと思います。
まず、前提としてこの作品がいわゆるSFではなく、SF的な枠組みをもった作品だということを理解する必要があります。どういう事かと言えば、新海さんにとってSFとはハードSFであり、一般の人に作品をみてもらうには、かなり噛み砕いて出さないと娯楽作品にならないという認識があったのではないかと私は考えています。(事実、新海さんは、かなりのハードSFマニアです。)いくらご自身がハードSFに精通していて、濃い作品が好きでも、それをメジャーな市場に出す作品として前面に押し出してしまえば、難解になりすぎて、たくさんの人に見てもらえない…と考えられたのではないかと思います。そのためハードSF的な科学的正しさは控えめな作品となっています。つくり手が意図的にハードSF要素を緩めに作った作品ですので、そこに突っ込むのは野暮というものです。
しかし、この作品は確実にSF的な枠組みを持っています。その枠組を作品に与えているのが、「2001年宇宙の旅」の作者、アーサー・C・クラークが書いた「都市と星」という小説です。なぜ新海さんは「都市と星」を枠組みとして採用したのかと言うと、実は重大な理由が隠されています。(これは後ほど解説します)「都市と星」を読んだことがある人なら分かると思いますが、「君の名は。」とは、テーマ性がちょっと違います。というか、決定的にある部分が違うのですが、そこが新海さんが一番強く言いたかった部分でもあります。また、他にもコニー・ウィリスの「航路」というSF作品からも、強い影響を受けたとインタビューで語っていらっしゃいます。さらに、都市と星には、内容的に呼応する作品がありまして、それが村上春樹の世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドという作品だったりします。この3つの作品と君の名は。の関係は、後ほど解説します。
なお、1万文字ほどあるこの文章は、かなり詳細なネタバレを含んでいますので、未見の方は映画を観てから読んで下さい!
この作品では、糸守という架空の町が彗星によって壊滅します。その時の死者数が500人という数字だった事を疑問に思いませんでしたか?彗星で町が一つ消えたならもっと多くても良いはずです。そもそも糸守は架空の町ですから、人数は自由に設定できたはずです。この数字には理由というかモチーフがあります。
この作品を読み解いた批評で多いのが、「これは震災後をテーマにした作品だ!」というものです。これは、厳密には間違いではありませんが、実はちょっと違うのです。インタビューでも「震災を意識してないことはない」という感じで控えめに監督が語っていらっしゃるのが印象的でした。震災の影響はあったと思いますが、震災そのものを描いた作品ではありません。むしろ、12歳〜13歳くらいの体験からの影響が強いと、NHKでの川上未映子さんとの対談でおっしゃっています。
1973年生まれの新海監督が12〜13歳の頃といえば、1985年〜1986年です。この頃、世間では何があったのか?その頃新海監督が体験した事件が、この作品に強い影響を及ぼしています。当時の主な事件を少し列挙しておきましょう。他にもあるかもしれませんが、私は次の3つが大きな影響を与えているように感じました。
・1985年8月 日本航空機123便墜落事故(死者520名)
・1986年 ハレー彗星が76年ぶりの地球接近
・1986年1月 チャレンジャー号爆発事故
映画をみた人は、二回目に観るときにこれらの事件を重ねて観て下さい。といっても、若い方には、この事件がすでに分からないものかもしれませんね。新海監督と同世代の人は、気がついた人も多いかとおもいますが、上記3つは確実に重要なモチーフになっています。これは、コニー・ウィリスの航路とも少し関係しています。航路という作品では、タイタニックの事件と、ヒンデンブルク号の事件がモチーフになっています。航路のネタバレになりますが、航路という作品は、「人生が終わるときに人生のメタファーとしてそういった象徴的な事件を臨死体験として見る」といった感じのことをテーマにした小説なのです。新海監督自身が、子供時代に感じて影響された事件をモチーフにしたことで、これらの事件を知らない若者にとっても、どこかリアリティのある迫力を感じさせているのではないかと私は思います。
さて、君の名は。の大きな枠組みについて、だいたい理解してもらえたかと思いますが、もっと基本的な細部の疑問について解説したいと思います。なお、外伝についても少しだけネタバレしていますが、重要な部分は書いてませんので、もし興味をもった方はぜひ外伝小説を読んでみて下さい。航路、都市と星、世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドについても、作品解説のためにネタバレしていますが、発表からずいぶんたった作品なのでご容赦下さい。もし興味を持たれたら、ぜひ読んでみて下さい。新海ワールドがもっと楽しめるようになると思います。
■なぜ、三葉と瀧の二人は入れ替わったのか?
男女の入れ替わりについては、監督がインタビューで「入れ替わりは物語の導入のための仕掛けであって、入れ替わりである必要は無かった」とおっしゃってます。しかしまあ、一応作中からわかるのは、三葉の祖先から伝わる巫女の能力に時空を超えて他人の脳に干渉できる力があるという設定です。その能力が、入れ替わりとして発動したという事になります。なお、発動条件は二人が実際に出会い、身につけていたもの等を相手に渡す事がトリガーになっています。はじめて二人がであったのは、作中時間軸の三年前に組紐を渡したとき(瀧と三葉がはじめて出会ったとき)です。卵が先か鶏が先かという話ですが、最初に物理的接触があったから、入れ替わりが生じたのです。しかし、その出会いの理由が入れ替わりですから、タイム・パラドックスが生じてしまいます。しかし、これは、「まだ出会ったことの無い誰かを探している」というセリフから推測するに、巫女の持っている予知能力のようなもので、「相手を知らないままに東京に行って出会ってしまう」という最初の接触が存在した可能性が示唆されています。瀧も三葉もおなじようにお互いを探していますが、実際には三葉の能力に感化された瀧という関係になっているわけです。つまり巫女の予知能力設定によってタイム・パラドックスは解消されるのです。このあたりの予知能力設定については、外伝小説に詳しく書かれています。この一見タイム・パラドックスに見えるエピソードがこの作品のもっとも重要なテーマであるところが面白いですよね。
■なぜ最後に父親を説得できたのか?その描写が省略されているのは手抜きか?
この部分はかなりぼかしてあるので、多くの人が疑問に思ったと思います。この明確な理由については、外伝の小説の中に詳細にかかれており、外伝を読む楽しみの一つでもあります。映画の中だけで分かるのは、三葉の中身が別人であることを、祖母と父親が見破ったという描写があるところです。巫女の入れ替わりの能力を二人は知っていたのです。とくに父親は、妻(三葉の母親)の死について、彗星となにか関係があることを悟り、(ほんものの)娘の話を信じたと考えられます。ちなみに、劇中から省略された理由ですが、外伝小説の一章をまるまる使うくらいの裏設定があるので、描く時間が足りなかっただけだと思われます。なお、外伝を読まないとまったく分からないという訳ではなく、おおよそ推測出来る程度には映画の本編でも描写されています。もっとも重要なエピソードは、タイムリープ中に瀧が見る「三葉の母親の死の光景」です。この作品について、何の代償もないし世界が救われるのはタイムリープものとして納得がいかない(説得力がない)という意見をツイッターなどでよく見かけます。本当に代償は無かったのでしょうか?作中から読み取れる最大の代償は、「三葉の母親の死に何か秘密があった」という部分に表現されています。特に「救えなかった」という父親のセリフが印象的でしたよね。本編では、代償のようなものはあったかもしれないという程度に描写されているという事です。外伝のネタバレをここでしてしまうのは野暮ですので、この作品の最大の謎になっている父親関連のエピソードについて知りたい人は、それだけで一本の作品として成立するほどの話が書かれている外伝小説をご購入下さい。(私は外伝を読んで泣きましたw外伝として傑作です!)
【外伝小説 君の名は。Another Side:Earthboundはこちら!】
■なぜ彗星は糸守に落ちたのか?また過去にも落ちたことがあるのか?
おそらく過去にも糸守に隕石が落ちたと思われます。糸守湖が隕石湖であることをテッシー(坊主の兄ちゃん)が指摘するシーンがあります。しかしまあ、同じ場所に彗星が分裂して隕石となって落ちるなんて、まるでオカルトです。テッシーが、ムーを愛読しているのは、そんなオカルトを信じてしまっても不思議がない協力者として描写するためです。(なお、テッシーは監督自身を投影したキャラクターであり、監督自身が実際にムーの愛読者だったという話もインタビューでされていました。)しかし、現実にそんなことが起こるのでしょうか?リアリティがなさすぎではないでしょうか?いくらなんでもオカルトすぎる!という気持ちになった人もいるかもしれませんが、この作品はハードSFではありませんので、ここをリアリティの欠如として指摘するのは野暮ってものです。それでも、どうしても気になる人に解説しておくと、一応この彗星の正体を示唆する設定があります。外伝小説のタイトルですが、『君の名は。Another Side:Earthbound』というものになっています。Earthboundという英語の意味ですが、【〈宇宙船など〉地球に向かっている】という意味だそうです。外伝小説にも意味ありげにその辞書の内容が書かれたページが掲載されていますので、ここに特別な意味があることは間違いないでしょう。なお、彗星が人工物であることを説明した詳細なエピソードは、本編はもちろん、外伝小説の中にも出てきません。とは言え外伝のタイトルにするほどですから、あの彗星は人工物(宇宙船)であるという裏設定があることは間違いないでしょう。外伝小説には、糸守の巫女達が、太古の昔より彗星と関わっていたことが描かれていますが、宇宙船であるという裏設定は、もっと大きな時間軸に由来する設定だと思われます。それこそ数億年ぐらいの大きな時間の中での出来事だったのかもしれません。このあたりの大きな時間軸が存在する理由は、この作品が都市と星という小説の枠組みをもっている部分に由来するものです。このあたりは後ほど解説します。
■なぜ、三葉と瀧は時空を超えて出会うことが出来たのか?
瀧が三年前に死んだ三葉を追って、口噛み酒を飲んでタイムリープするシーンがあります。これは、先にも説明したとおり、三葉の巫女の力によるものです。口噛み酒が三葉の持っている巫女の力を宿していたのです。なぜ、タイムリープが可能だという事に瀧が気がついたかというと、この口噛み酒を奉納したのが、入れ替わった瀧であり、結びの概念について、一葉から説明を受けていたからです。とまあ、このあたりは流石に普通に観ていても分かると思いますが、その後、別の時間にいた二人がなぜ出会うことが出来たのかというのは、やや分かりにくい点です。 これは、カタワレ時という言葉から推測できます。この黄昏の時間は、あの世とこの世がつながる時間なのです。このカタワレ時は、夕日によって人の輪郭がぼやける時間であるため、人ではないものに出会うかもしれない時間とされています。このあたりの説明は映画の冒頭で、ユキちゃん先生によって行われています。また、御神体のある場所があの世の境であることも示唆されています。三葉が三年前に死んでいるからこそ、カタワレ時に二人は会うことができたという事にります。この作品のタイムリープは、巫女の精神感知能力によるものであり、SF的なタイムリープではありません。ですので、このあたりをハードSF的に突っ込むのは野暮というものです。人の心というのは、物質ではありませんので、時空を超える可能性は、SF的にもなかなかおもしろい視点だと思います。とはいえ、ふたりはカタワレ時に、組紐を返したり、マジックでお互いの手に文字を書くという物理的接触までしてますので、このあたりはやはり、見た目の印象重視の設定だったと思います。ロマンチックでいいじゃないですか!こういった描写に、科学的考証で突っ込むのはやめましょう!なお、外伝小説では、妹の四葉が口噛み酒によってタイムリープしてしまうエピソードが収録されています。
■なぜ、二人は名前を忘れてしまうのか?
「夢は夢。目覚めればいつか消えてしまう。」という祖母である一葉のセリフがあります。じっさい夢の出来事は目が覚めると記憶から薄るれるものですが、もちろん、夢だって覚えてる事はあります。しかし、この作品の夢というのは、単なる夢ではなく、未来の危険(隕石の落下)を人に知らせるための巫女の特殊能力だと考えられます。そのため、もともと、宮水家の巫女には、関わった人から記憶を消すような特別な力があったことが推測されます。二人だけでなく、一緒に旅をした、友人の司や奥寺先輩の記憶も曖昧になっています。これは、外伝にもかかれてませんし、私の想像ですが、巫女のもつ力を隠すため(悪用されないため?)に、自らの記憶も含めて宮水に関連するすべての記憶を消す能力があったのだと考えられます。ラストに何度もすれ違いかけて、なかなか出会わない二人に、ドキドキしたりヤキモキした人も多いかと思いますが、この作品の最大のキセキは、巫女の能力でお互い忘れたはずの相手を思い出した(かもしれない)という所にあるわけです。なお、その後本当に二人が、お互いを思い出したかどうかは、外伝にもありませんし、真実は新海監督以外誰にも分からない事であり、そのまま思い出さなかった可能性もあるわけです。よく教育された新海誠ファンは、ハッピーエンドにもバッドエンドにもとらえることが出来ていろいろ楽しみ方があるわけです。ただし、今回、最大の代償は母親の二葉が背負っていますので、瀧と三葉の世代のエピソードは、ハッピーエンドだったと考えるのが正しいと私は思います。新海作品に見られるいつもの重いエピソードは、母親の世代が背負ってくれたのです。
しかし、このカップルを引き裂くような展開は、どうして新海監督作品のすべての作品で重要なテーマとなっているのでしょうか。これには、「都市と星」という小説が深く関わっています。基本的な疑問は解消されたと思いますので、いよいよ、君の名は。が隠し持っているSF的な枠組みと、なぜそれが組み込まれたかについて解説していきたいと思います。
■都市と星と君の名は。の関係。アリストラの呪いとは何か?
都市と星という作品は、1956年にアーサー・C・クラークというSF小説界の巨匠によって書かれました。この小説をすごくざっくり説明すると、10億年後の遠い未来を描いたスケールの大きなSF超大作ということになります。主人公であるアルヴィンという少年(見た目は青年)は、とても好奇心の強い人間です。しかし、この10億年後の地球は、かつて銀河を支配した人類がすでに衰退したあとの地球であり、人類は宇宙を捨て地球の一つの都市に引きこもって暮らしています。とまあ、このあたりのスケールの大きな部分を話すとキリがないので、この作品が持っているもうひとつの側面を話したいと思います。 すばらしい、SFの最高傑作にもあげられる本作品ですが、思春期に読むと、ある設定に違和感を感じます。おそらく新海さんもその設定がトラウマになったクチだと思います。 それを、わたしは「アリストラの呪い」と呼んでいます。
アリストラとは、都市と星にでてくるヒロインの名前です。はっきりっ言って、このヒロインは美少女アニメの主人公であれば、ほぼ完璧な存在です。健気で可愛くて聡明で少しツンデレなところもある幼馴染の美少女なのです。しかし、なんと、あろうことか、彼女は、物語の3分の2くらいのところで滑り台をかけおります。しかも他のヒロインに負けたとかではなく、設定上の都合で消え去るのです。 例えて言うなら、めぞん一刻を読んでいて、3分の2くらいのところで、管理人さんが出てこなくなって、五代と三鷹の友情の話が最終話まで続くようなものです。一応補足しておくと、意味もなくそんな事になるのではありません。
都市と星の世界では、人類は不死を実現しています。愛情というのは、哺乳類がもつ特別な感情と作者は定義しており、不死を実現した人類には、男女の愛は不要だと言っているのです。そのあたりを踏まえて、都市と星のストーリをもう一度違う視点から説明すると
好奇心旺盛な少年が、幼馴染の少女を置き去りにして、電車にのって田舎へ旅にでます。そのとき、田舎で出会った人々の価値観に影響され、元の町に戻った時に、価値観の違いから幼馴染の彼女をあっさり捨てます。その後主人公は自分の目的を果たしますが、元カノには二度とあうことはありませんでした。
とかいうあらすじになります。この価値観というのは、SF的には、不死の人類と死を受け入れてきた人類の価値観の違いという形で描写されています。不死の人類は、子供を生むことがありません(作中ではへそがないと表現されています)。不死を実現した人類は、データとして肉体を保存し、ゼーガペインみたいな感じでデータから肉体を再現させます。セックスだけは形骸的にのこっていますが、そこに子供を生むという意味がない以上、特別な愛情は希薄になっているのです。その事実を、まだ子供を生む能力を有し、死を受け入れている外の世界に住む人々と出会うことで、アルヴィンという主人公は、ヒロインに対する興味を失ってしまうのです。SF上の設定とは言え、なんともセツナイというとか、もはや呪いに近いほどのトラウマ設定です。そんな、アーサー・C・クラークについて新海さんが日記に少し書いていらっしゃいます。
■それから。アーサー・C・クラークが亡くなったのですね。いつかはそういう日が来るというのは分かるのですが、でもとても残念です。僕は中学生の時にテレビの深夜放送でたまたま『2001年』を観て、そこで描かれていることの意味をどうしても理解したくて、クラークの小説版を何度も読み返しました。『太陽系最後の日』や『幼年期の終わり』や『都市と星』や『宇宙のランデヴー』、そういった作品群を初めて読んだときの興奮は今でも覚えています。僕の「ほしのこえ」という作品の英語タイトルである「The voices of a distant star」は、クラークの『遙かなる地球の歌 The Songs of Distant Earth』からいただきました。そういえば「秒速5センチメートル」のロケハンで種子島に滞在していたときに、僕は毎晩寝る前に『都市と星』を読み直していました。砂漠に哀しくも雄々しくそびえるダイアスパーの塔。その姿は今でも強い憧憬の対象です。
注目すべき点は、「秒速5センチメートル」を作ってる時に、何度も都市と星を読み直したという部分でしょう。都市と星をアリストラ視点から見た時のあらすじを先程提示しましたが、これって、「秒速5センチメートル」にそっくりじゃないですか?
そうです!新海監督が、アーサー・C・クラークに影響を受けた部分が一番色濃く反映されているのが、アリストラの呪とでも言うべき、トラウマものかつ、鬱な展開の部分にあったのです。
それでは、具体的にアリストラが最後どうなったか、小説の引用で観てみましょう。
====新訳版 都市と星 本文より引用
アリストラは、去っていくアルヴィンの背中を見送った。さびしくはあったものの、もう胸がつぶれそうなほどの悲しみに苦しむことはなくなるような気がした。いまならわかる。自分はアルヴィンを失うわけではない。なぜなら、いまだかつて、いちどたりとも自分のものだったためしがないからだ。その事実を受け入れるとともに、けっして報われない愛を失うことへの悲しみから、アリストラは脱けだせそうな気がした。
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クラーク特有の皮肉がきいたまわりくどい描き方になってますが、ようするに滑り台(ヒロインの戦線離脱)です。これが終盤ならまだわかりますが、物語を三分の一ほど残して、ヒロインであるアリストラはこの後一切出てきません。 新海さんが都市と星にこだわっている理由は、この作品がSFとして素晴らしいというだけでなく、このアリストラの呪にかかって、それをとくために作品を作らなければならない状況に追い込まれたという理由があったのではないでしょうか。 秒速5センチメートルでは、アリストラの呪をとくことができなかったどころか、そのまま、バトンを渡すように視聴者に呪をかけてしまいました。「なんで恋愛ものであんなに非道いバッドエンドをつくるんだ!」と怒った人も多かったと思いますが、あの元ネタは、アリストラの呪によるものだったのです。そして、今回の作品ではその呪がついに解消されます。それは、単に解消されるだけでなく、同時にこの作品には都市と星へのオマージュがたっぷりと詰め込まれることになりました。
まず、最初にわたしが気がついた(気になった)セリフがあります。
「東京だっていつ消えてしまうかわからないと思うんです」
ラストの方で、瀧が就職活動の面接で言うセリフです。多くのひとは、これを糸守の記憶や、震災へのオマージュだと思ったのではないでしょうか。しかし、そう受け止めるとやや不自然というか、不謹慎なセリフにも聞こえます。実はこのセリフは、新海さんなりの都市と星へのオマージュだったのではないかと私は考えています。都市と星では、人類は歴史上はじめて、永遠に滅びない都市の建造に成功します。しかし、それは、もともと都市というものは、いつか消えてしまうものだという前提があって出てきたSF的な夢なのです。逆説的に考えれば、どんな都市もいつかは消えるというのは、都市と星のテーマそのものなのです。
それを踏まえた上で、いろいろと都市と星と君の名は。に構造的な類似点を見出す事ができます。 まず、東京と、糸守ですが、これは、都市と星におけるダイアスパーとリスです。 ダイアスパーは不死の人がすむ都市で、リスは昔ながらの暮らしをする人が住む田舎です。リスは田舎ですが、この10億年でダイアスパーの人とは違った進化をしており、テレパシーで人をあやつる能力をもっています。そうです、糸守の巫女の能力は、リスの人がもっているテレパシーの能力が元ネタになっています。さらに、御神体のある場所ですが、これも都市と星に似た場所がでてきます。糸守の御神体がある場所ですが、都市と星では、リスの近くにあるシャルミレインという聖地のような場所に相当します。シャルミレインも糸守の御神体も同じように、外輪山に囲まれた場所なのです。 このシャルミレインは、都市と星では、かつて人類が宇宙の外敵と最後の戦いをした伝説の場所という設定になっています。しかしその真実は、地球に落下してきた月を破壊するための兵器があった場所という事が後になってわかります。
そうです!糸守に落ちる隕石の元ネタは、都市と星における月の落下だったのですね。 ストーリー的に、都市と星と君の名は。はそれほど似た作品ではありませんが、舞台やSF的な設定にかなりのオマージュが見受けられるのです。
8.26公開『君の名は。』新海誠監督インタビュー最終回/強烈な「ロマンチック・ラブ」に憧れがあるんだと思います...
都市と星については、こちらのインタビューでも言及されていますので、偶然の一致ではなく、確実にオマージュとして意図的に設計されたものだと思われます。 なお、先述した彗星の正体が宇宙船だという説ですが、都市と星のオマージュだと考えると納得がいきます。都市と星では、主人公のアルヴィンが宇宙船にロボットをのせて、人類を置き去りにして旅立っていった片割れの人類に会いにいかせるというエピソードがあります。そのとき主人公のアルヴィンは、旅立った人類に出会って真相が分かったらまた地球に戻ってくるように、ロボットに命令をだすのです。この命令を受けた宇宙船が、彗星の正体だったのではないかと私は考えています(詳細な部分は私の個人の妄想ですが、都市と星のオマージュによって、彗星=宇宙船という設定にした可能性は高いと思います。)
さて、新海さんのインタビューでは、「航路」という作品も言及されています。この作品は、都市と星とは違った意味で、君の名は。に影響を与えています。しかし、この「航路」がとても面白いSFであることは間違いありませんが、なぜ新海さんの心に特別に刺さったのでしょうか。 実は、この航路のまえに、押さえて置かなければならない重要な小説があります。それが、村上春樹の世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドという作品です。 世界の終わりと…は、簡単に言うと、「人の脳内にある空想の世界」についての物語です。現実に存在する世界ではなく、人の脳内にだけ存在する世界について書いた作品なのです。ゆえに、この作品をセカイ系の最初の作品と位置づける評論家も多いのです。そして、とても重要な事ですが、この作品は先程紹介した都市と星とすごく類似点が多い作品です。なぜかというと、人が作り出した完璧な都市であるダイアスパーと、人の脳内につくられた完璧なセカイが非常に似ているからです。これは設定的には、偶然ではありません。なぜなら、都市と星の元ネタが、ラブクラフトの「狂気の山脈にて」というロストワールド系SFから来ており、世界の終わりと…も、同様にロストワールド系SFがベースにあるのです。(世界の終わりと…では、一角獣が重要な存在として出てきますが、一角獣がもし実在したならロストワールドのような場所に違いないという推測が出てきます。)なお、余談ですが、進撃の巨人もこの二つの流れを組む、ロストワールド系SFだと考えられます。世界の終わりと…が画期的というか、天才的だったのは、このロストワールド系SFを、人間の脳内に配置したところにあります。そして、新海さんは、この脳内のセカイについて、ダイレクトに影響を受けた作品も作っています。それが、雲の向こう、約束の場所という夢をテーマにした作品です。宇宙が見る夢というSF的な設定をもったこの作品は、人間の脳内にあるセカイとロストワールド系SFがつながっているという解釈をベースにしながら、さらに平行世界の概念を足したものになっています。それらをふまえて「航路」という作品について説明したいと思います。この作品は、臨死体験をテーマにしたリアルな医学的描写が特徴のSF小説です。臨死体験は人間の脳が作り出したものに過ぎません。これはまさに、世界の終わりと…で示された、脳内セカイをテーマにした話なのです。しかし作中では、医者である主人公自ら臨死体験を疑似体験します。その臨死体験があまりにもリアルだった事から、臨死体験で人が見る場所は現実にある場所かもしれないという仮説が提示されます。最終的にどういった答えが提示されるかは、ぜひ小説を読んでみて下さい。この小説の結末と君の名は。はそれほど似たものではありません。しかし、途中で仮説として提示される脳内セカイ=現実にある場所というアイデアは、君の名は。に、大きな影響を与えたと思われます。君の名は。における、外輪山に囲まれた隕石湖というのは、ロストワールド設定のオマージュから生まれた世界観です。君の名は。は、夢でつながり、現実に存在したセカイとつながるという話です。これは、都市と星をベースにしながら、世界の終わりと…を意識しつつ、航路のアイデアを一部導入することで生まれた、まさに、ロストワールド系SF(セカイ系の大元)の最終完成形作品と言えるのでは無いでしょうか。
一つ補足になりますが、これはもう有名な話かと思いますが、新海作品に、新宿が出てくるのは、新海さんが新宿に住んでいるからです。しかし、なぜ新海さんは新宿にすんでいるのか?それほどまでに、新宿がすきなのか?というと、村上春樹作品に新宿がよくでてくるからなんですね。さらに、言の葉の庭でも舞台になっている新宿御苑は、世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドにでてくる架空の脳内セカイの地図の元ネタなんです。
【世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドの小説はこちら】
まとめると…。 新海さんが小学生時代に体験した強烈な事件の記憶(航路という小説でも事件の記憶がテーマになっていること)、都市と星におけるヒロインであるアリストラの呪い、村上春樹が描いてきた新宿という街。そして今まで脳内にあると思われたいた理想のセカイ(田舎)が、実際にあったというセカイ系と現実との融合(セカイ系のロストワールドへの回帰)。これらが複雑に絡み合ってうまれたのが君の名は。という傑作だったのです。 以上、かなり長文になりましたが、
「君の名は。は、大衆を騙す宣伝でヒットしただけの軽薄な作品に違いない!という頭の弱い評論家に騙されないようにしよう!」
というお話でした。
君の名は。には、誰にでも楽しめる分かりやすい表面上のプロットと別に、奥の深い設定や、SF史的にも意義の大きな作品構造としての新しさが存在しているからこそ、これだけ多くの人に支持されているのではないかと私は思っているのですが、いかがでしょうか?
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