聲の形は安易な感動ポルノなどではないという話(考察)

 聲の形という作品は、「障害者へのいじめ」という難しいテーマをあつかった作品だと世間では言われています。そのため、この作品は世間では障害者の描写を中心に語られることが多いようです。実際のテーマは別だと私は考えていましたが、たしかに障害者は描かれていますし、簡単に語れる内容ではないのでしばらく、聲の形の考察ブログを書くことを避けていました。興行成績も100万人を突破したとかで、そろそろ、「聲の形=感動ポルノ」とかいう誤解も解けてきた頃だと思いますので、私もいろいろ考察してみようかと思います。

 私は聲の形の原作を読まずに映画を見に行きました。かなりの話題作で、タブーを扱った作品ということは何となく知っていましたが、ネットのニュースで見る程度の知識以外は、ほとんど情報を入れずに映画に行きました。映画を見て京アニの得意分野がガンガン発揮されたすばらしい映画だと言う感想をまず持ちました。しかしそれ以上に、(恐らく原作にあった作品テーマだと思いますが)余りにも完璧な作品なので、何というか、ものすごい作品を見たという気分になったのです。   私はこの原作を「危険なテーマをあえて取り上げることで賛否両論とか問題作による話題の喚起を狙った作品」だと思ってたのですが、ぜんぜん違ったのです。話題作り先行の作品じゃないんです。何と言うか、もっと…すごく特別な作品なんですよ。 

とまあ、それはとても不思議な感覚だったんですね。それで、映画が終わってしばらく余韻にひたりながら、でも、この感覚を前にも味わったことがあるな……ということに気がついたのです。   しばらく、その正体が何なのか分からなかったのですが、これ、アレですよ。レ・ミゼラブルとすごく似てるんです。あの歴史的な傑作、レ・ミゼラブルを見たときと同じ感覚を抱く作品なんですよ! と言うわけで、今回の映画考察も、すごく長いです。当然ですが、ネタバレ全開ですので、映画若しくは原作コミックを読んでから御一読ください。

 [→原作コミック 聲の形第一巻はこちら


 なお、レ・ミゼラブルと似ているというのは、完全な個人の妄想です。かなり調べましたが、作者が自ら影響を口にしたようなインタビューは発見できませんでした。原作と公式ファンブックも買って読みましたが、そういった記述はありませんでした。しかし確信を持って言います。この作品は作者が意図したか偶然かは別として、レ・ミゼラブルと共通の構造とテーマを持っています。後で詳しく書きますが、それは本当のところ、作者が意図せずに同じ領域に達したという可能性が極めて高いのです。そう、まだ二十代のこの作品の原作者は、ヴィクトル・ユーゴーと同じ領域に達するような作品をテクニックではなくセンスから自力で生み出したのです。   取りあえず、いつものように、映画の……というより原作も含めたこの作品の基本的な部分から考察していきたいと思います。


 ■なぜ京都アニメーションはこの難しい題材の作品をアニメ化したのか?

 これは明確かつ単純な理由があります。映画の話が来る前は、監督も原作を読んでなかったとインタビューでおっしゃってました。制作者(監督)が原作にほれ込んで映画化が決まったわけではないようです。この作品が映画化された理由は、京都アニメーションというアニメ制作会社が何を一番得意とするかを考えるとすぐ分かります。京アニのもっとも得意とするのは感情芝居なんです。それも身振り手振りの作画を徹底して丁寧に描くことを得意とするスタジオなんです。そうです!この原作が手話を題材にしているから、手話を描くことで、京アニの得意分野を引き出した作品になるという目論見があってこの原作を選んだのです。その目論見は大正解でした。私も映画を見終わったあと、手話を幾つか覚えてしまいましたから…。手話がただの記号ではなく、感情をもって表現されているのが、とても印象的な映画に仕上がってます。原作でも手話の描写はかなり良くできていますが、漫画という表現の限界がありました。京アニの感情芝居作画が入ることで、この作品は、正に生命を得たかのようなすばらしい領域に到達したと思います。身振り手振りで気持ちを伝える……。それは京アニが映像表現として目指してきたことなんです。今回はその完成形なんですよ!テーマと映像演出がこれほど一致することは希ではないでしょうか。実写でも良かったのでは?と思う人もいるかもしれませんが、それを言うのは野暮なんです。京アニは、細部まで動画で表現することで、実写にはできない完璧な感情芝居を作り出すことを目指してる会社なんです。実際、これ実写の芝居じゃ無理だよ……という芝居が幾つもありました…。だって、髪の毛の一房の動きからすべてコントロールして丁寧に書いてるんですよ。こんな繊細なコントロールは、実写にはできません。だから、画面からすごく完璧な感じが出てくるんだと思います。逆に実写映画は、役者の演じる偶然の面白さがあるので、これはどちらが良いかではなく、目指している場所が違うのです。なお、アニメでもアニメーターさんを役者と見立てて偶然の演出をする場合もあるのですが、京アニは完全にアニメーターをコントロール下において統一感を出してくるスタジオなのです。 


[→京都アニメーション版 作画の手引きはこちら!]  


 ■なぜ聴覚障害者を主人公にした作品を作ったのか? 

これは原作者も言ってるとおり、作品のひとつの要素でしかありません。障害者差別をうったえるのが狙いの作品ではありません。だからこそ、危ないんですよね。面白半分で扱って良い題材ではありません。よほどの確信がなければ、あえてこの題材をギミックとして取り入れようは思わないでしょう。しかも一度出版社からNGをもらって、それでも書きたいという思いを経てリメイクを掲載、最終的には七巻の連載、そして大ヒット映画にまでなったわけです。この作品のテーマは、作者もインタビューで述べている通り、「人と人が互いに気持ちを伝えることの難しさ」なんですね。人と人のコミュニケーションはなぜうまくいかないのか……それこそが作者の描きたいことだというのは明白です。しかし、この作品が単にそれだけの作品であれば、とてもじゃないですが「障害者に対するいじめ」というタブーを描いてまで、世間に問う必要はなかったと思います。作者が無意識に、この表面上のテーマとは別に、隠し持ったテーマを作品に盛り込んだからこそ、この作品が普遍的な作品になったのだと思います。それが何なのかは、徐々に解説していきいます。ここでは「障害者差別をうったえる作品ではない! ましてや感動ポルノなのではない!」という点だけ明確にしておきます。

 

■主人公の石田将也は、なぜ西宮硝子をいじめたのか?この作品におけるいじめとは何か? 

これについては映画の方が上手く纏めていたかもしれません。しかも映画では、原作の長束君が映画制作をするエピソードをカットしてまで、小学生時代のいじめを細かく描いています。小学生時代を長くとったのは、原作のテーマを監督がよく理解していたのが理由だと思います。実は、この作品が描いているいじめというのは、子供のじゃれ合いというレベルのものではないんです。これは、犯罪なんです!そうです!この作品は、いじめという言葉でごまかされている、子供による犯罪を描いているんです。きっかけは好奇心から相手にちょっかいを出す程度のものでも、やがていじめに発展する……ただそれだけなんです。いじめの理由なんて大それたものではないんです。だから、なぜ将也が硝子をいじめたかといえば、だいそれた理由はありません。しかし、この作品は、補聴器の破壊と、その破壊された補聴器の総額が一七〇万円という子供には支払えない領域に達するところまで描いています。まさしく、石田将也は無自覚のまま犯罪者となるんです。そして、学級裁判によって断罪されるのです。その後の、石田将也への仕打ちは厳密には、単なるいじめではなく、犯罪者への罰として描かれているのです。


 ■なぜ西宮硝子は転校したのか? 

これは、映画だけでも、ほぼ分かるようになっていますが、原作を読むと更によく分かります。西宮硝子は自発的に行動する子ではありません。だからこそいじめの対象になってしまったのですが、硝子の行動を仕切ってるのは母親なんですね。かなり気の強い母親です。ある意味、絶対的な正義の象徴でもあるんですね。西宮硝子の母親に対して、石田将也の母親が補聴器のお金を支払ってお詫びするシーンがありますが、原作でも映画でも、特に説明なく石田母が耳から血を流しています。まあ、これは説明する必要もなく、西宮母が、制裁を加えたか、若しくは石田母が自ら罪を償う姿勢を見せたか…という描写ですね。これは、どちらも同じ意味なので、あえて見せてないわけです。どっちが実行したとしても、それは西宮母の過剰すぎる正義感の結果に違いないのです。そんな母親ですから、いじめが発覚すれば、転校を勝手に決めるに違いありません。これも、理由は描かれていませんが、西宮硝子がのぞんだ転校ではなかったというのは、後々わかるわけです。

 [→聲の形(1) (週刊少年マガジンコミックス) はこちら!


■石田将也はなぜ自殺しようとしたのか? 

いじめの所でも述べましたが、将也は意図せずに自分が犯罪者となったことを、罰をうけることで自覚します。自分の罪をしたから自殺を考えたのです。では、罪を償うために死を選ぼうとしたのでしょうか。これは、違うんですね。人間は自分を裁くような存在ではないとこの作品は言ってるのです。犯罪者が罪を裁かれるというのは、将也がいじめのターゲットになることで、既に描かれています。しかし、罪を罰によって裁くというのはこの作品において、作者が一番否定したい裏テーマなんです。では、なぜ将也は死を選ぼうとしたのか。それは、クライマックスの台詞から逆算するとわかります。ラストで、将也が硝子に「君に生きるのを手伝ってほしい」という言葉を伝えます。(この言葉には二つの意味がありますが、それは後ほど)そうです!将也の自殺は、生きる目標を失ったから選んだ結論だったんですね。これは、すごくリアルというか、よく人間を観察してるなーと思います。本来人間は自ら死んだりしないのです。意図せずして犯罪者となってしまった自分自身をどうして良いか分からない将也は、ただ、目標を失うのです。目標を失った結果が死だと考えてるんです。手話を覚えて、アルバイトをして母親にお金を返し、硝子に謝りに行く、それらは、罪を償う行為です。しかし、死は罪を償う行為ではないんです。自分に対してあらゆる罰を与えた後に、目標を失った結果自然に訪れるものだと将也は考えてるんですね。この作品において、自らに死を与えることは罰ではないのです。死は選ぶものではなく、どうせいつか死ぬという結果のひとつであり、何も選べなくなった人生の最後に自然に訪れる結末なのです。


 ■石田将也はなぜ西宮硝子と再会して自殺を止めたのか? 

結局、将也は硝子に再会したあと自殺をやめます。このあたりが、ちょっと分かりにくいところです。なぜ自殺をやめたのか?もし自殺が罪を償う行為や自らに与える罰なら、自殺をやめるというのはあり得ないんです。この再会ではお互い過去の出来事について何も解決してないんですが、それでも自殺をやめたのは、あらたな目標を得たからなんです。「人が生きる理由は正しい答えだけではない」この作品はそういうテーマを描いてるんです。硝子との再会で、将也は生きるための目標を得たと考えてもいいでしょう。ただし、この時点では罪は当然許されていません。そんな簡単なものではないんですね。むしろ、一生許されないという事実が明確になっただけなんです。再会のシーンでは、かなりあっさりと硝子が将也を許してしまうのですが、相手が許しても、償いきれない罪だったことを将也は理解したのだと思います。では、あらたに得た目標とは何だったのか……。罪を犯した相手に、あっさり許されたことで、罪の意味が、相手に対するモノから自分に対するモノへと変わったのです。ただし、表面的には飽くまでも、「硝子が許したとしても、硝子にたいして罪を償い続けること」が目標になっています。この時点では、本人も自分の中に罪が移ったことに気がついてないんですね。気がついてないというか、認められないという感じでしょうか。

ちょっと話がずれますが、この作品はキリスト教的な表現を多数取り入れています。作者はおそらくキリスト教への信仰からそういった表現をいれた訳ではないようです。なぜかというと、大今良時先生はデビュー前に三作品ほど漫画を書いており、内容が魔女裁判ものだったらしいのです。キリスト教徒であれば、魔女裁判モノの漫画は書かないと思います。でも、たしかにキリスト教的な枠組みがこの作品にはあるんです。もしかすると魔女裁判モノを書いているときにキリスト教について調べたのかもしれません。公式ファンブックで、作者自らキャラクターにおちる影の形を意図的に十字架として描いたりしてることを解説しています。他にも、姉の娘の名前がマリアであったり、その父親がペドロ(イエス・キリストに従った使徒の一人ペトロから)であったりと、キリスト教的なモチーフが点在しています。これは、将也が自らの中に罪を背負ったという描写を強調するためにキリストがモチーフとなってると私は考えています。キリスト教をテーマにした作品ではありません。逆なんです。キリスト教から作品がうまれたのではなく、罪を背負った将也を描くためにキリスト教を持ち出してきているのです。このあたりが、レ・ミゼラブルと共通する部分でもあります。レ・ミゼラブルでは、ジャン・ヴァルジャンという主人公が神父の家から燭台を盗み出します。しかし、神父はそれをあっさり許すどころか、もうひとつの銀の燭台までもジャン・ヴァルジャンに渡すのです。実はヴィクトル・ユーゴーは、キリスト教徒ではないそうです。これは、ジャン・ヴァルジャンが、罪を自分の中に背負って生きると言うきっかけを作ったという描写なのです。「罪を許してもらったラッキー!」ではないのです。罰を受けることなく許された罪は自分が背負うことになるということを描いているのです。罰を受けることなく許されるというのは、この二つの作品に共通のテーマの一つです。 


 ■鯉にエサをやるシーンは何か特別な意味があるの? 

鯉が泳いでる川にかかった橋のシーンは、様々な意味を持ってきます。公式ファンブックによると、作者にとって、鯉が何かを食べるというのは、象徴的な意味があることが語られています。将也が硝子にパンを持って二度目の再会に行きますが、これは、贖罪の象徴であると思われます。パンが重要な意味をもつこの描写に、パンを盗んだ罪で一九年のもの監獄生活をおくったジャン・ヴァルジャンを思い出してしまいました。キリスト教では、パンは「キリストの身体(肉)」、ワインは「キリストの血」を表しています。これも、また、将也が自らの中に罪を背負ったという象徴として描かれているのです。その自らの罪を鯉が食べていくのですから、象徴的な意味があるのは当然です。漫画でも映画でも鯉はやたらと強調されてて演出されています。なお、もう一つの意味として、鯉のいる場所が水中であるという隠喩表現があります。小学生のいじめのシーンでも校庭の池につかってずぶぬれになるシーンがあります。将也が返したノートを硝子が川におとしてしまって、川に二人とも飛び込むというシーンも象徴的でしたね。水中というのは、声が聞こえない世界です。つまり、硝子の世界でもあるのですが、それだけでなく、コミュニケーションが取れない世界の象徴としても描かれているんですね。これについては、もう明確に描いてあるので考察というよりも、よく考えて描いてある作品の証明でもあります。こういう普通に読んでも伝わらないような演出は、見ている人に無意識に何かを感じさせるモノなのです。映画や漫画を見て分からなかった人も、何だかこの作品は凄いぞ。って思うものなのですよ。

 [→聲の形公式ファンブックはこちら!]  


■いじめの加害者が、被害者に許されて恋に落ちるって安易じゃない?

 映画が公開されて、こういった意見が多く出ました。加害者は絶対にゆるされるべきじゃないという意見ですね。ですが、この作品は、そもそも、罪は罰によって解消されるものではないというテーマであり、そもそも許されてないのですね。しかも、恋愛をメインテーマとして描いた作品でもないのです。 「人と人が互いに気持ちを伝えることの難しさ」がこの作品の表のテーマです。しかし、裏にあるテーマは、「罪を犯した人間がどうやって生きていくか」が描かれています。この裏のテーマが、正にレ・ミゼラブルと共通する部分なんですね。しかし、これは冒頭にものべましたが、作者がレ・ミゼラブルのオマージュなどを作品に組み込んでるわけではなさそうです。そこがこの作者の凄いところで、意識的にも意味のある描写をしつつ、無意識的にも様々なものを作品に盛り込んでる部分なんですね。その決定的なエピソードが、硝子が将也に告白するシーンに現れています。硝子が声にだして「好き」と伝えたのが、将也に「月」と勘違いされるシーンです。夏目漱石が「I love you」を「月がきれいですね」と訳したのが元ネタだと多くの人が考察してたのですが、実は、公式ファンブックによると偶然だったというのですね。作者も申し訳ないと思ってると言ってます。レ・ミゼラブルとの類似点もこの偶然によって起きたのではないかと私は推測しています。ここから先は、レ・ミゼラブルとの比較をしながらもう少しだけ考察を進めたいと思います。


 ■レ・ミゼラブルとの類似点

多少強引ですが、聲の形とレ・ミゼラブルに登場するキャラクターと役割の近いキャラクターを比較してみました。聲の形とレ・ミゼラブルのキャラクター配置やテーマがすごく似てるのは、多分偶然なんですが、並べてみると想像以上に似てるんですよね。表面上のテーマやストーリーは全く違うのですが、裏にあるテーマが同じだから、必然的に出てくるキャラクターの役割などが似ているのだと思います。別に顔が似てるわけではありません。中には顔が似てるキャラもいますが、設定上のポジションの類似が原因でしょう。なお、聲の形を見て面白いと思った人で、レ・ミゼラブルを見たことがない人は是非見てみてください。漫画、アニメ、映画といろいろあります。きっと気に入って貰えるはずです。 上記の図のように、驚くほどキャラクター配置が似てるんですね。ただし、これは作者が意図的に似せたモノではないと思います。むしろ、意識していたらもっと似せなかったと思うんですね。逆に無意識だったからこそ、レ・ミゼラブルとすごく似た構造やキャラクター構成が生まれたのではないかと私は推測しています。特に、聲の形が描かれた2007年(最初の投稿が2008年)には、世界名作劇場でレ・ミゼラブル少女コゼットというアニメが放送されています。もしかしたら、何の気なしに作者はそれを見ていたのかもしれません。そうでなくても、レ・ミゼラブルは映画や舞台などで、何度も作られていますので、どこかで見ていた可能性はあります。何となく意識に残るレベルだったのではなでしょうか。全く知らなかったとしたら、逆に凄いことです。しかも、先述の夏目漱石のエピソードから考えて、その可能性もゼロではないのです。罪を許された罪人が、自らの人生をかけて罪を償うというのがレ・ミゼラブルのテーマなのですが、これは聲の形の裏テーマとそっくりなんですね。同じテーマであれば、同じような構成になる可能性は十分に考えられます。20代にして無意識にヴィクトル・ユーゴーと同じ領域に達した…これは、正に天才のなせる技ではないでしょうか。 

[→レ・ミゼラブル 少女コゼット 1はこちら!

[→映画レ・ミゼラブルはこちら!]  

[→コミック LES MISERABLES 1はこちら!]  


なお、ここで提示している比較は、同じようなテーマの作品において、同じような役割をもったキャラクターを比較することで、作品をより深く掘り下げるという試みで、元ネタとはちょっと違いますので、ご注意ください。そもそも、ストーリーなどは全然別の作品です。


▼西宮硝子 = コゼット(+ミリエル司教)

コゼットとは

貧しさから母親と別れ、宿屋のテナルディエ夫妻に預けられる。夫妻や娘たちから召し使いのような扱いで日々こき使われるが、母ファンティーヌの「必ず迎えに来るから」と言う約束を心の支えに、つらい毎日を明るくけなげに生きる。純粋無垢で心優しく、心を許した他人に身をゆだねる、素直で明るい少女。

硝子の天使性というか、全く主体性のない善の性格が、コゼットととてもよく似ています。いじめられているのに、全く相手を憎むことがないのです。これは、ジャン・ヴァルジャンや石田将也にとって、守るべき対象になるキャラクターだからそうなってるのです。なお、加害者と被害者という関係も同じです。石田将也ほど直接的ではありませんが、ジャン・ヴァルジャンも意図せずコゼットを不幸にする加害者となってしまいます。加害者にとって、この天使性は逆にまぶしすぎる存在だったかもしれませんが、それによって作品の持つ、罪を背負って生きるという部分がより強調されていくのです。こういう人間が実際にいるかどうかは分かりませんが、もしいたとしたら加害者にとっては一番つらい相手かもしれませんね。


▼石田将也 = ジャン・ヴァルジャン(+マリウス?)

ジャン・ヴァルジャンとは

飢えた甥や姪を救うために一槐のパンを盗んだ罪で投獄されるが、何度も脱獄をはかったために一九年という年月を獄中で過ごし、心をすさませる。しかし、ミリエル司教との出会いによって人間性を取り戻した彼は、マドレーヌと名を変えて、やがてモントルイユ・シュル・メールの町で工場を経営し、人々から望まれて市長にまでなる。

この作品の裏テーマは、石田将也という人間が罪を犯し、それを罰ではなく、許されることで、自分の問題として抱え込んで、やがて硝子や仲間と接しながら罪と自分に向き合っていくというものです。物語の最初でいきなり許されるのが、ジャン・ヴァルジャンと石田将也の共通点です。そして、決して罪からは逃れられず、コゼット(西宮硝子)の命を救うという役割も同じです。ジャン・ヴァルジャンも石田将也も、「罪を背負った自分と向き合って生きること」正にそういう作品テーマを背負ったキャラクターなのです。


▼植野直花 = エポニーヌ

エポニーヌとは

コゼットと同い年。初めはコゼットと仲良くするが、両親がいじめる姿を見て、コゼットにつらく当たり始める。コゼットに対して優越感を持つ反面、子供心に複雑なコンプレックスを抱いている。やがて両親とともにパリに出てマリウスに恋をするが、マリウスの目がコゼットしか見ていないと知って…。コゼットと「光と影」のような関係にある少女。

多分、役割的にもキャラクター的にも一番そっくりなキャラクター。ちなみに、エポニーヌは、主人公のコゼットよりも人気があるそうです。そういう私もエポニーヌ派です。植野直花も西宮硝子をしのぐ人気があるそうです。石田には西宮ではなく植野とつきあってほしいというファンも多いのだとか…。すごく非道いキャラとも取れるのですが、真っすぐな恋愛感情と、複雑な自己への葛藤という魅力をもったキャラなのですよね…。


▼川井みき = アゼルマ

アゼルマとは

テナルディエ夫妻の次女。両親や姉にならってコゼットをいじめる。主体性が持てず、いつもその場で一番強いものに従ってしまうようなところがある。

主体性なく、無意識のうちにいじめに荷担しているところ似てますね。


▼島田一旗・広瀬啓祐 = テナルディエ夫婦

テナルディエ夫婦とは

モンフェルメイユ村の宿屋の主人夫婦。夫婦揃って限りない欲深さの持ち主で、常に人の足元を見ている。コゼットの母ファンティーヌをだまして法外な養育費を取り手元に預かるが、コゼットを使用人扱いしてこき使う。後に破産して一家でパリに出るが、そこでも狡猾に立ち回り悪事を働き続ける。

島田達は、テナルディエほど悪人ではありませんが、ポジション的には最後までほぼ和解しないので、似ているといえば似ています。原作では、西宮硝子の親戚などがテナルディエのポジションに当たるかもしれません。


▼竹内先生 = ジャヴェール

ジャヴェールとは

牢獄ですさんでいたジャン・ヴァルジャンを刑吏として目にしていた頃からの因縁により、ジャン・ヴァルジャンを執拗に追い続ける刑事。職務に忠実であることを誇りとし、他人にも厳しいが自分にも厳しい。人間の本質は決して変わらないことを信じているが、ジャン・ヴァルジャンを追い続けるうちに徐々に葛藤が生まれてくる。

教師という正しい立場にあり、正しいことを言いながらも、どこかおかしい…。正義の中にある不思議な気持ち悪さを象徴するキャラクターです。ジャン・ヴァルジャンの天敵というところが似ています。


▼西宮結絃 = ガヴローシュ

ガヴローシュとは

テナルディエ夫妻の長子で末っ子。両親は娘たちばかりをかわいがり、ガヴローシュは乳児の頃から全く関心をもたれずに成長する。最初は誰にも心を開いていないが、子守を任されたコゼットにだけはだんだん心を開いていき、姉弟のように仲良く助け合うようになる。

実の姉妹とは違いますが、姉弟という関係がすごく似ています。実は暗くうつろか心を抱いて生きてるところなんかがよく似ています。


▼真柴智 = マリウス

マリウスとは

貴族の祖父に育てられたが、ナポレオン軍で戦った亡き父の思いを知ったことから、王党派である祖父に反発して家を出、苦労しながら法律を学ぶ。 成長したコゼットと出会って、恋をする。

実はこのキャラクターは、そもそも余り物語とは関係ないし、西宮硝子と恋におちることもなく重要な役でもないのですが、顔が似ていますwイケメンという点が似ている。あと、真柴という名前の由来は、マという名前が似合うと思ったという証言が、公式ファンブックに記載されていました。何となく、マリウスをイメージしたという可能性はあるのかもしれません。


▼永束 友宏 = アラン

アランとは

ジャン・ヴァルジャンが市長になった、モントルイユ・シュル・メールの町の少年。貧しさから盗みを働くが、ジャン・ヴァルジャンに助けられて生まれ変わっていく。ジャン・ヴァルジャンにとって彼を救うことは、過去に自分を救ってくれたミリエル司教への恩を返すことでもある。ジャン・ヴァルジャンの仕事の手伝いをするようになり、病気になったファンティーヌの世話をしたり、ジャヴェールからの逃走を手助けしたりする。ジャン・ヴァルジャンの不在後は、彼の仕事と意志を引き継ぐ。

ジャン・ヴァルジャンとアランの関係は、将也と長束の関係とかなり似ています。ただし、キャラクター造型は全然にてません。これは、テーマ的にも手助けするキャラが存在しなければ物語が成立しないので、かなり必然的に同じようなポジションのキャラが生まれたと私は思います。


▼佐原みよこ = オードリー

少女コゼットのアニメのキャラと顔が似てます。偶然かな?


▼石田美也子・西宮八重子・西宮 いと = ファンティーヌ

ファンティーヌとは

貧しさゆえに娘コゼット連れパリから仕事を求め田舎へとやってくる。途中出会ったモンフェルメイユ村の宿屋のテナルディエ夫妻にうまく丸め込まれてコゼットを預け、モントルイユ・シュル・メールの町でヴァルジャンの工場で働きだすが、女工仲間の嫌がらせを受け工場を追い出され、極貧の生活の中コゼットのために体を酷使し働き続ける。しかし無理な生活がたたり、やがて迎える死の床でコゼットをジャン・ヴァルジャンに託す。

母親三人の描き方は、この作品の特徴です。レ・ミゼラブルにおいては、ファンティーヌの存在と似ていると思います。 さて、今回の考察で、一番言いたかったのは、君の名は。のときに考察した、都市と星の構造を新海監督が作品に持ち込んだという話とはちょっと違います。都市と星との類似は、監督本人が語っているので、かなり確証が高いんです。


しかし、最初に言った通り、レ・ミゼラブルと、聲の形は、比較するとテーマが共通でキャラクターの配置も驚くほど類似性があります。しかし、作者は一言もレ・ミゼラブルを意識したという話を公ではしていません。それに、夏目漱石の引用エピソードなどからも推測して、この類似性は、無意識の中で、共通のテーマを描いたことで発生したと私は考えています。

この原作者である大今良時先生が、なぜこれほど完璧な作品を生み出すことができたのか?キリスト教を引用した演出はどんな意味があるのか?すべては、順番が逆なんです。 作者が必死に、コミュニケーションと罪の話を描こうとした結果、レ・ミゼラブルほどの世界的な名作と同じ結果に到達したのです。映画版では、かなり洗練された構成になっているので、よりテーマがはっきりしており、将也の存在が、悩める十代というよりは、罪を背負って正しく生きようとする聖人のようにすら見えます。 「君に生きるのを手伝ってほしい」というクライマックスの言葉は、告白とも取れますが、実は罪を背負って生きるという宣言でもあるのです。しかし、罪を背負うだけでは不十分だったので、この後も少しだけ話は続くわけです。そして、最終的に、仲間とのふれあいで、自分と向き合う決心をするのです。

もっと細かい考察もたくさんあるのですが、それは、他の考察者や公式ファンブックにかなり詳細にかかれていますので、そちらにゆずるとして、最後に映画版のラストシーについて書いておきます。 

私は、原作よりも映画のラストシーンが好きです。

そこに描かれているのは、罪を犯した人間が許しを得ることで、その罪を自分でかかえ、そして、ついには、罪と向き合うことができたことを表現しています。 その後も罪を許されることは決してありません。罪とはそういうものだとこの作品は言ってるのです。しかし、罪と向き合うことができたなら、周りの世界が見えるようになって、強く生きることができると言ってるのです。罪を罰によって裁くのではなく、罪を背負っていきるのでもなく、罪と向き合って生きること、それがこの作品のテーマなのだと思うのですが如何でしょうか? 

そう考えていくと、障害者のいじめという難しいテーマを描いてでも、この作品を発表する意味が十分にあったことが分かります。 


聲の形は、感動ポルノなどではありませんし、障害者のいじめを告発する作品でもありません。もっと普遍的な人が生きる上での指標が提示されたレ・ミゼラブルのように、長く語り継がれるべき傑作のひとつであると私は思うのです。

この機会に、この考察を踏まえて原作を読み直したり、映画を2回3回と見るのも面白いかもしれません。もし時間があれば、ぜひレ・ミゼラブルも見比べてみてください!両作品とも本当に奥の深い作品ですので見る度になにか発見があるかもしれませんよ。