東北ずん子の企画者として、アニメずんだホライずんについてみなさんに伝えておきたいこと。本日15日27時58分(16日の朝4時)に、私が企画で参加しております東北ずん子のアニメ化作品、「ずんだホライずん」がMBS(関西系)で放送されます。人生で初めての原作作品(共同原作:村濱章司、小田恭央)のTVアニメ放送ですので、もしよろしければ観てやって下さいませ……。関西以外の方は、5月2日にアニマックスにて、4月22日には、テアトル新宿にて劇場公開(あにめたまご共同上映)されます。正直なところ私にとって初のアニメ化で、スタッフ・キャストが豪華すぎて、こんなすごい方々に作って頂いて、うれしいやら申し訳ないやらで困惑してたりします。普段はCG制作協力などで下請け、孫請けでTVアニメには参加しておりますが、今回は逆の立場と言うこともありまして、とても緊張しております。また、このアニメは、東北ずん子のコンセプト通り、東北を応援するアニメです。東北ずん子は、東北企業であれば商用でもフリーで使えるコンテンツです。アニメ化で知名度があがれば、東北企業がイラストを使用したときの経済効果も大幅にあがることが予想されます。昨今のアニメは、ただ面白かった…で終わりでは無く、観る人に盛り上げてもらわなければ、簡単に消費されて驚くほどあっさりとコンテンツとしての寿命が尽きて二度と日の目を見ない状況に陥り完全に終わってしまいます。ぜひ、このアニメをみて何かを感じ取ったクリエイターの方は、その気持ちを二次創作にぶつけて下さい!!!二次創作重視のコンテンツとしては、あえてアニメ化しないものも多くあります。そのため、アニメ化を懸念されているクリエイターさんもいらっしゃると思いますが、今回のアニメ化で、二次創作の幅が狭まることは無いと思います。(そのあたりは配慮して作成してるんです。)そもそも、アニメ、漫画、小説、ツイッター、ニコニコ動画、すべて設定もキャラも微妙にちがいます。(基本のコンセプトの上に自由なアレンジがあると解釈しております)いろんな東北ずん子、東北きりたん、東北イタコがいて良いわけです。それでも、アニメを観ることで、キャラを掴みやすくなる利点もあると思います。また、二次創作した作品を観てくれる人も大幅に増えることが期待できます!ぜひ、MBSの放送後に、過去絵でもラフ絵でもいいので作品をネットにアップして盛り上げて下さい!(冬の大ヒット作品、けものフレンズの盛り上がりなんかも作品だけでなく二次創作が人気を支えていると思います。)今回のアニメ化は、ある意味お祭りのようなものです。30分1本だけの作品ですが、しゃぶりつくすつもりで、楽しみながら、創作もしながら、東北のリアル経済も含めて盛り上がることを願っております!1話だけですが、通常の深夜アニメの1.5倍くらいの予算で作られており、新人育成とは言え、ベテランの徹底した指導と、ギリギリまでの作画修正で、ハイクオリティにしあがっております。(原作者特権で、作画の経過も見させて頂いておりましたが、ほんとに最後の追い込みのクオリティアップは凄かったです)関係者の皆様…ほんとうに、ほんとうに、ありがとうございました!そして、ずん子ファンのみなさまのおかげでここまで来れました!東北での上映や全国での上映、それこそ世界公開までふくめまして、いろいろな方法を検討しております。もう少しで発表できるので、しばらくお待ち下さいませ!あと、大先輩として、冬アニメでも圧倒的な存在感で放送中のリトルウィッチアカデミアは、同じあにめたまご(当時はアニメミライ)の作品です。東北ずん子のアニメも、リトルウィッチアカデミアのような展開を目指す事になると思います。 最後に重要なことを伝えたいと思います。 ずん子の昔からのファンはご存じだと思いますが、当初のコンセプト通り、アニメ化はゴールではありません。ここからがスタートです。長い長い助走をして、いまからついに飛躍する瞬間がきたのです。より高く、より遠くへ飛躍できると信じております!このスタートをより大きな飛躍にできるように、今後とも東北ずん子を宜しくお願い致します!2017.04.15 11:47
【映画レビュー】クリエイター必見!イラン映画、人生タクシー(ほぼネタバレなし)■映画データタイトル 人生タクシー 監督 ジャファル・パナヒキャスト 主演? ジャファル・パナヒジャンル ドキュメンタリー解説 厳しい報道管制下にあるイランでタクシーの運転手をする映画監督自身によるドキュメンタリータッチの映画。すべての物語がタクシーの中からの撮影によって展開する。2015年・第65回ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞。■感想※まだ一般公開されていない試写会での鑑賞なのでネタバレなしで感想を書きます。映画の内容にも少しふれてますが、重要なネタバレはしてませんので、この感想をみて興味を持った人はぜひ映画館へ足を運んでみて下さい! 4月15日から公開のようです![人生タクシー公式サイト]この映画、イランの映画なのですが、ちょっと変わった映画です。ずっとタクシーの中だけで話が展開します。「いろいろな乗客がタクシーを乗り降りする中で、運転手との会話の中にイランの社会情勢を垣間見ることができる」という構成になっています。しかも、運転手が映画監督で、乗客は運転手が監督であることに気がつくケースもあります。その上で、「さっきの乗客は役者さんですか?」と言った会話が出てきて、ドキュメンタリー風のフィクションなのか、本当にタクシーで偶然会った人を撮ってるだけなのかわからなくなります。 ちなみに、イランのタクシーは相乗りがOKのようで、すでに乗客が乗っていても、次の乗客が気軽に乗ってきます。他の乗客を乗せたくない場合は、貸し切りを宣言しないといけないようです。 そういった、イランの特殊な事情が分かる映画なのですが、単にイランの現状を伝えるだけでなく、映画としての面白さにあふれています。大笑いするほどのコメディではありませんが、ニヤニヤがとまらないような、小さい笑いが沢山しこんであります。そして、もうひとつの特徴なんですが、情報規制の厳しいイランにおいて、「多くの人が映画を撮りたいと考えている」という設定になってます。本当にそんな人が多いのか、映画用に誇張してるのかはわかりませんが、いろんな登場人物が映画について語っています。でも、この映画で描かれる情報規制ってイランだけの話では無いんですよね。実は日本のTV等でも、おなじような事はあるんです。最近のTVは、驚くほどの自主規制で、創作の幅が狭まってしまうことがあります。政治的な規制とは違うかもしれませんが、表現の自由は油断するとどんどん規制されてしまうものなのです。情報規制の厳しいイランだからこそ、そういった、モノづくりへの情熱や本質的な表現の追求について、より強く思いを巡らせてしまう映画になってます。 そんなこの映画は、当然のようにイランでは上映禁止になったそうです。イランで上映禁止されても、この映画をつくりきって世界の人々に届けることが出来たことに対して、監督や関係者に拍手を贈りたい気持ちになりました。イランの情報管制と戦って完成したこの映画ですが結局この映画はイランでは見れないんじゃ意味ないのでは?と思ってしまうかもしれません。 いやいや、きっとイランの人も逆輸入の海賊版でこの映画をみてると思います。(映画作中にもそれを示唆する内容があります) あと、気のせいかもしれませんが、イランの日常風景は、どことなく日本と似てますね。なんでかわかりませんが、他の外国よりもすごく親近感を感じました。IPhoneやiPadが普通に使われているのも印象的でした。そんな、いろいろと厳しい状況で作られている映画ですが、この映画が、イランの厳しい現実だけでなく、厳しい中でもたくましく生きる人々を描いている部分にこそこの映画が作られた意義があるのではないかと思いました。 たぶんイランは近いうちに変われるんじゃないかと思うんですよね。この映画はそんな未来を感じさせる映画でもありました。 この映画のおすすめ度は『★★★★☆』です![これは映画ではない2015主演: ジャファル・パナヒ]2017.03.28 09:46
3月11日に思うずんだの地平線本日で、震災から6年が経過し、7年目に入りました。そんな日に、東北ずん子がアニメ化され、初めて一般に公開されました。東北ずん子のアニメ(ずんだホライずん)は、あにめたまごという文化庁の新人アニメーター等を育成するプロジェクトで製作されています。本日が、一般初公開となったことは、まったくの偶然なのですが、あにめたまごの試写上映のあとに、2時46分に関係者の写真撮影の後、黙祷を行いました。東北ずん子という作品は、震災や福島の問題などに直接的に触れたことはありません。ですが、作品の中にある大きなテーマがあります。それは、「再生への願い」です。起きてしまった出来事を無かったことには出来ません。ですが、人の想いは、長い時間をかけて、失ったものを乗り越えて再生へとつながっていくと信じています。ファンの方はお馴染み、アニメを初めて見る方も、観れば一目瞭然の、「ずんだアロー」という技がありますよね。あれは、矢が当たったものが、少し良い物になるという願いが込められた技なのです。(餅にあたれば、ずんだ餅になります)破壊の技ではなく、何かが再生されていく象徴として考えた技なのです。今回のアニメですが、痛快な娯楽作品になっています。テーマなども裏にはあるのですが、30分という限られた時間で、とにかく楽しんでもらえる作品になっていると思います。そして、世界初ともいえるボカロ&UTAUによるミュージカルになっているという特徴もございます。奇しくもLaLaLandが大ヒットしているタイミングで、ミュージカルアニメを公開できたのは、不思議な巡り合わせだと思っています。(企画時はここまでミュージカルが日本で受け入れられるとはおもってなかったので…)4月22日は、新宿テアトルのでの一般公開もございます。その他、アニマックスなどでのTV公開、JALの機内上映なども決まっております。DVD・BDパッケージや、配信、その他局での放送などは、現在検討中ですのでお待ちください!2017.03.11 12:22
クリエイターさんの身の回りの人に伝えたいこと 少し病んでるクリエイターさんのSNSはとても拡散しやすい傾向があるようです。 もちろん統計を取ったり、医学的に調査したわけではありませんが、最近のネットの話題を見ていると、どうもその傾向はかなり顕著にあるように思えます。病んでる時特有の少しズレた発言が、奇異にうつるのか、たくさんの人が面白がってRTしてしまうようです。 それを逆手にとってわざとそういった発言をしている人もいるのかもしれませんが、私が思うに、かなりの確率で純粋な本心からの発言だと思われます。むしろこういった発言はピュアでないとすぐにわかってしまいます。天然のふりはバレるものです。 クリエイターさんが奇異な発言をしてしまうと炎上する場合があります。 そういったプチ炎上を、多くのまとめサイトだけでなく、ニュースサイトまでもが、面白がって取り上げる始末で、それによって、なんらかの経済効果があるのは、良いことかもしれませんが、意図せずに矢面にたってしまったクリエイターさんはたまったものではありません。 もし、身近にいる人で、気がついた人がいたら、そのクリエイターさんを何とかして休ませてあげてください。可能なら病院で検査を受けた方がいいかもしれません。精神的なものだけでなく、疲労などの体調不良なども関係しているかもしれません。 どちらが良いか、よく考えてください!!! たしかにクリエイターさん自ら宣伝したら、もりあがるかもしれません。でも、それでクリエイターさんの精神が壊れてしまって次が作れなくなったら…。そっちのほうが業界に大きな損失ではないでしょうか? クリエイターさん自ら炎上商法のようなことをするのは、かなり精神的には辛いことです。 ちょっとしたプロモーションのためにクリエイターさんをかり出すのは、悪いことではありませんが、いくらなんでも限度があると思うのです。[休む技術]2017.01.29 12:16
タスク表の中に終わらないタスクがどんどん溜まってしまう人へ 私は基本的に仕事のタスク管理はエクセル(今ならスプレッドシート)を使用して、新しいタスクをセルの上に追加して、終わったら塗りつぶすという方法をとっています。2016.12.12 12:26
たぶん大ヒットするモンスターストライクTHE MOVIEとか言う映画について、どうしても一言いっておきたい(ネタバレあり)モンストの映画を早速観てきました。ひとつ最初に断っておきますと、モンストのアプリは配信された初期に遊んで(おお~面白いじゃんと思った)以来最近はやってません。なのでゲーム的な世界観はほとんど知りません。子供向けアニメとしてはすばらしい完成度ではないでしょうか。子供をバカにしてない作りに好感が持てます。少し難しいくらいがいいんですよね!仲間との絆みたいなテーマなんですが、実際に客層も、親子連れよりも、友達数人と……。みたいな感じで大勢で見に来てるのが印象的でしたね。映像面では、特にCGパートがすばらしかった。もう全部CGで作ってもいいくらいよくできていた。もちろん作画も、リムライトとかハイライトが凝ってたり、色指定がカット毎に調整してあったり手が込んでました。CGと作画の融合は、適材適所になっており、ほぼ完成形といってもいいのではないでしょうか。 (以下ネタバレあり)とまあ、一応ここまでは褒めておりますが、ほんとに良い映画でしたよ。ある一点を除いてはね……。もうね……。その一点だけで、すべてが台無しなんですよ……。いやね……。そういうキャラがいることも知ってますし、いまさら言うのもおかしな話だと思われるかもしれませんが、それでも言いたい。言わせてくれ…。アーサー王は女じゃないし、エクスカリバーは技ではない!!!!これはあれですか?Fateとのコラボかなんかですか?裏で大人たちがなにか金銭の受け渡しをして裏コラボをしてるんですか? [Fate/EXTELLA]というか、元ネタのFateの時点で同じことを思ってたのですが……いやね……。歴史上の人物(伝説上も含む)の女体化などあたり前のことですよ。そこに版権などはありませんよね…。モンストの映画に対して言ってるのではなく、元ネタのFateに対しても言いたい。何度でも言う。アーサー王は女じゃないし、エクスカリバーは技ではない!!!! いや、アーサー王と円卓の騎士の物語に凄い詳しいわけでもないんです。むしろFateのほうがよっぽど詳しいし、見慣れています。そしてね…。この違和感がいつしかカ・イ・カ・ンになってるんですよ…。そう、この映画の最大の欠点は……。「エクスカリバーー!!!!!!」(技名叫ぶ)がすべてを持っていってる点です。 元ジブリの岸本卓さんが脚本の中で積み上げたものや、そのあと、本当のモンストの必殺技らしいストライクショットとか、いっぱい良いところがあるんですが、そのすべて霞んでしまってるんですよ……。もうね……。たぶんみんな大満足ですよ。このエクスカリバーに!エクスカリバーバンザイ!そうだ!アーサー王は女だったかもしれない…とうかそもそも史実じゃないし…版権無いんだからどんなアレンジしてもいいし…っていうか、もしかしたら女だったかもしれないし(錯乱)……アーサー王は女の子…………アーサー王は女の子……アーサー王は女の子……アーサー王は女の子……アーサー王は女の子……アーサー王は女の子……アーサー王は女の子……アーサー王は女の子……アーサー王は女の子……アーサー王は女の子……アーサー王は女の子……アーサー王は女の子……アーサー王は女の子……アーサー王は女の子……アーサー王は女の子……アーサー王は女の子……アーサー王は女の子…………………うがぁ!!! 「エクスカリバーー!!!!!!」(技名叫ぶ)[アマゾンはこちら]2016.12.10 06:10
blender <> MAYA <> 3dsMAXのモデルデータやり取りの注意点3DCGの仕事をしていると会社さんによって、使ってるソフトが異なる場合があります。3DCGソフトは、ほぼすべてのソフトでほとんど互換性がありません。基本的には似た様なことしかしてないはずなのですが、微妙に違うデータ形式や操作方法を持ってます。今回は、特によく使われている3つのソフトでデータを受け渡す際に注意することをまとめてみました。まず、前提として、データの受け渡しに使うファイル形式はFBXというものが使用されます。これは、オートデスクが提唱している互換性の高いファイル形式です。しかし、このFBXがやっかいな問題を引き起こします。同じ会社の3DSMAXとMAYAの間ですら、厳密な互換性がありません。でもまあ、ある程度注意してファイルをやり取りすると、モデルデータのやり取りくらいは、なんとか上手くいきます。毎度毎度、スタッフやクライアントでトラブルが起きるので、この機会にわたしの分かる範囲で、注意した方が良いポイントをまとめてみました。今回使用しているソフトは以下の通りです。▼blender2.78a東北ずん子で覚える! アニメキャラクターモデリング▼MAYA2016マヤ道! ! : The Road of Maya (CG Pro Insights) ▼3dsMAX2016世界一わかりやすい3ds Max 操作と3DCG制作の教科書 (世界一わかりやすい教科書) まず第一に、ファイルのやり取りをする場合、そもそも、どういうデータなのかというの知っておく必要があります。今回はblenderのスザンヌさんのデータを使用しました。2016.12.09 12:46
この世界の片隅にが異常な高評価を得ている理由(ほぼネタバレなし) 泣くと評判だったし、実際に映画館は泣いてる人が多かったのですが…。しかし、これは泣かせる映画ではありません!(断言)。ストーリーや演出も泣かせるポイントをあえて外してあります。それでも、泣きたくなるような悲しくてやりきれない内容があるのは事実ですが、そこを主題とはしてないのは明白です。 この映画及び原作は、一人の人間を描ききることをテーマとしています。だから、主演の声優は、シンクロ率の高い配役が必須なのですが、なんの奇跡かわからんほどに、上手くいってるんですよね。こればっかりは、テクニックではどうにもならないと思うのです。一人の人間を描こうとした結果、奇跡的にぴったりの配役になったのですよ。やたら宣伝にのんちゃん出ているし、やっぱ話題性もあるのかなぁと思った自分の考えは間違いでした。むしろ、話題性なら、あまちゃんで人気があったとはいえ、事実はどうであれ様々な噂のある干されているとか言われていた女優さんをあえて使わないはずです。 ツイッターでも書いたけど、「のん」の声があってるとか言うレベルではないのです。主演女優賞を与えるべきです。アニメではなく、映画として。(ただし、誤解が無いように書いておくと、のんちゃんは声優としての技術が高いわけではありません。むしろ、幼少期と大人になったときの声の使い分けなどは出来てなかったので最初少し違和感があります。ですが、そんなものは、途中で関係なくなるほどシンクロしていきます。だから、この配役は奇跡としか言い様がないのですw) 基本のストーリーラインは、すずさんをたんたんと描いてるだけなので、シンプルなのですが、細部の作り込みが圧倒的すぎて、消化しきれてないので、原作を読んだ後にもう一度見に行ってから細部の感想を書くことにします。(とりあえず、今日は興奮だけ伝えたいので短めに感想書きますw)[この世界の片隅にの原作はこちら] しかし、アニメがここまで一人の人間をリアルに描けたことは、かつてなかったのではないかと思うのですよね。それは作画枚数とか、絵のうまさとか、演出のすばらしさとか、声優の演技のうまさとか、アニメーターの芝居のタイミングとかではなく、なにか別の理由があるように感じました。 多くの人はこの映画の良さをうまく言葉にできないのではないかと思います。 それにしても、ツイッターは絶賛だらけです。なぜ、これほどまでに評価が高いのでしょうか? 片渕監督が映画監督として実力派なのはだれもが認めるところですが、実はそれだけではないと私は思いました。(いや、原作アレンジは抜群に上手い監督さんなんですけどね。)[マイマイ新子と千年の魔法Blu-rayはこちら][BLACK LAGOON Blu-ray BOXはこちら] この映画は作り出されたものではなく、見つけ出されたものだったのではないでしょうか。 傑作を天才が0から創作して生み出した感じでは無いのです。 演出テクニックやストーリーテリングやタイミングの良い音楽によって、強引に感動させている作品ではありません。 片渕監督の執念のような探求心によって、この世界から見つけ出された天然モノなのです! そうとしか考えられません!! ほとんどの映画はどうがんばっても、良く出来た人工物なのですが、これは実話でもないのに天然素材120%みたいな映画なのです!! 「ありがとう、この世界の片隅に、この映画を見つけてくれて」2016.11.12 09:30
聲の形は安易な感動ポルノなどではないという話(考察) 聲の形という作品は、「障害者へのいじめ」という難しいテーマをあつかった作品だと世間では言われています。そのため、この作品は世間では障害者の描写を中心に語られることが多いようです。実際のテーマは別だと私は考えていましたが、たしかに障害者は描かれていますし、簡単に語れる内容ではないのでしばらく、聲の形の考察ブログを書くことを避けていました。興行成績も100万人を突破したとかで、そろそろ、「聲の形=感動ポルノ」とかいう誤解も解けてきた頃だと思いますので、私もいろいろ考察してみようかと思います。 私は聲の形の原作を読まずに映画を見に行きました。かなりの話題作で、タブーを扱った作品ということは何となく知っていましたが、ネットのニュースで見る程度の知識以外は、ほとんど情報を入れずに映画に行きました。映画を見て京アニの得意分野がガンガン発揮されたすばらしい映画だと言う感想をまず持ちました。しかしそれ以上に、(恐らく原作にあった作品テーマだと思いますが)余りにも完璧な作品なので、何というか、ものすごい作品を見たという気分になったのです。 私はこの原作を「危険なテーマをあえて取り上げることで賛否両論とか問題作による話題の喚起を狙った作品」だと思ってたのですが、ぜんぜん違ったのです。話題作り先行の作品じゃないんです。何と言うか、もっと…すごく特別な作品なんですよ。 とまあ、それはとても不思議な感覚だったんですね。それで、映画が終わってしばらく余韻にひたりながら、でも、この感覚を前にも味わったことがあるな……ということに気がついたのです。 しばらく、その正体が何なのか分からなかったのですが、これ、アレですよ。レ・ミゼラブルとすごく似てるんです。あの歴史的な傑作、レ・ミゼラブルを見たときと同じ感覚を抱く作品なんですよ!と言うわけで、今回の映画考察も、すごく長いです。当然ですが、ネタバレ全開ですので、映画若しくは原作コミックを読んでから御一読ください。 [→原作コミック 聲の形第一巻はこちら] なお、レ・ミゼラブルと似ているというのは、完全な個人の妄想です。かなり調べましたが、作者が自ら影響を口にしたようなインタビューは発見できませんでした。原作と公式ファンブックも買って読みましたが、そういった記述はありませんでした。しかし確信を持って言います。この作品は作者が意図したか偶然かは別として、レ・ミゼラブルと共通の構造とテーマを持っています。後で詳しく書きますが、それは本当のところ、作者が意図せずに同じ領域に達したという可能性が極めて高いのです。そう、まだ二十代のこの作品の原作者は、ヴィクトル・ユーゴーと同じ領域に達するような作品をテクニックではなくセンスから自力で生み出したのです。 取りあえず、いつものように、映画の……というより原作も含めたこの作品の基本的な部分から考察していきたいと思います。 ■なぜ京都アニメーションはこの難しい題材の作品をアニメ化したのか? これは明確かつ単純な理由があります。映画の話が来る前は、監督も原作を読んでなかったとインタビューでおっしゃってました。制作者(監督)が原作にほれ込んで映画化が決まったわけではないようです。この作品が映画化された理由は、京都アニメーションというアニメ制作会社が何を一番得意とするかを考えるとすぐ分かります。京アニのもっとも得意とするのは感情芝居なんです。それも身振り手振りの作画を徹底して丁寧に描くことを得意とするスタジオなんです。そうです!この原作が手話を題材にしているから、手話を描くことで、京アニの得意分野を引き出した作品になるという目論見があってこの原作を選んだのです。その目論見は大正解でした。私も映画を見終わったあと、手話を幾つか覚えてしまいましたから…。手話がただの記号ではなく、感情をもって表現されているのが、とても印象的な映画に仕上がってます。原作でも手話の描写はかなり良くできていますが、漫画という表現の限界がありました。京アニの感情芝居作画が入ることで、この作品は、正に生命を得たかのようなすばらしい領域に到達したと思います。身振り手振りで気持ちを伝える……。それは京アニが映像表現として目指してきたことなんです。今回はその完成形なんですよ!テーマと映像演出がこれほど一致することは希ではないでしょうか。実写でも良かったのでは?と思う人もいるかもしれませんが、それを言うのは野暮なんです。京アニは、細部まで動画で表現することで、実写にはできない完璧な感情芝居を作り出すことを目指してる会社なんです。実際、これ実写の芝居じゃ無理だよ……という芝居が幾つもありました…。だって、髪の毛の一房の動きからすべてコントロールして丁寧に書いてるんですよ。こんな繊細なコントロールは、実写にはできません。だから、画面からすごく完璧な感じが出てくるんだと思います。逆に実写映画は、役者の演じる偶然の面白さがあるので、これはどちらが良いかではなく、目指している場所が違うのです。なお、アニメでもアニメーターさんを役者と見立てて偶然の演出をする場合もあるのですが、京アニは完全にアニメーターをコントロール下において統一感を出してくるスタジオなのです。 [→京都アニメーション版 作画の手引きはこちら!] ■なぜ聴覚障害者を主人公にした作品を作ったのか? これは原作者も言ってるとおり、作品のひとつの要素でしかありません。障害者差別をうったえるのが狙いの作品ではありません。だからこそ、危ないんですよね。面白半分で扱って良い題材ではありません。よほどの確信がなければ、あえてこの題材をギミックとして取り入れようは思わないでしょう。しかも一度出版社からNGをもらって、それでも書きたいという思いを経てリメイクを掲載、最終的には七巻の連載、そして大ヒット映画にまでなったわけです。この作品のテーマは、作者もインタビューで述べている通り、「人と人が互いに気持ちを伝えることの難しさ」なんですね。人と人のコミュニケーションはなぜうまくいかないのか……それこそが作者の描きたいことだというのは明白です。しかし、この作品が単にそれだけの作品であれば、とてもじゃないですが「障害者に対するいじめ」というタブーを描いてまで、世間に問う必要はなかったと思います。作者が無意識に、この表面上のテーマとは別に、隠し持ったテーマを作品に盛り込んだからこそ、この作品が普遍的な作品になったのだと思います。それが何なのかは、徐々に解説していきいます。ここでは「障害者差別をうったえる作品ではない! ましてや感動ポルノなのではない!」という点だけ明確にしておきます。 ■主人公の石田将也は、なぜ西宮硝子をいじめたのか?この作品におけるいじめとは何か? これについては映画の方が上手く纏めていたかもしれません。しかも映画では、原作の長束君が映画制作をするエピソードをカットしてまで、小学生時代のいじめを細かく描いています。小学生時代を長くとったのは、原作のテーマを監督がよく理解していたのが理由だと思います。実は、この作品が描いているいじめというのは、子供のじゃれ合いというレベルのものではないんです。これは、犯罪なんです!そうです!この作品は、いじめという言葉でごまかされている、子供による犯罪を描いているんです。きっかけは好奇心から相手にちょっかいを出す程度のものでも、やがていじめに発展する……ただそれだけなんです。いじめの理由なんて大それたものではないんです。だから、なぜ将也が硝子をいじめたかといえば、だいそれた理由はありません。しかし、この作品は、補聴器の破壊と、その破壊された補聴器の総額が一七〇万円という子供には支払えない領域に達するところまで描いています。まさしく、石田将也は無自覚のまま犯罪者となるんです。そして、学級裁判によって断罪されるのです。その後の、石田将也への仕打ちは厳密には、単なるいじめではなく、犯罪者への罰として描かれているのです。 ■なぜ西宮硝子は転校したのか? これは、映画だけでも、ほぼ分かるようになっていますが、原作を読むと更によく分かります。西宮硝子は自発的に行動する子ではありません。だからこそいじめの対象になってしまったのですが、硝子の行動を仕切ってるのは母親なんですね。かなり気の強い母親です。ある意味、絶対的な正義の象徴でもあるんですね。西宮硝子の母親に対して、石田将也の母親が補聴器のお金を支払ってお詫びするシーンがありますが、原作でも映画でも、特に説明なく石田母が耳から血を流しています。まあ、これは説明する必要もなく、西宮母が、制裁を加えたか、若しくは石田母が自ら罪を償う姿勢を見せたか…という描写ですね。これは、どちらも同じ意味なので、あえて見せてないわけです。どっちが実行したとしても、それは西宮母の過剰すぎる正義感の結果に違いないのです。そんな母親ですから、いじめが発覚すれば、転校を勝手に決めるに違いありません。これも、理由は描かれていませんが、西宮硝子がのぞんだ転校ではなかったというのは、後々わかるわけです。 [→聲の形(1) (週刊少年マガジンコミックス) はこちら!] ■石田将也はなぜ自殺しようとしたのか? いじめの所でも述べましたが、将也は意図せずに自分が犯罪者となったことを、罰をうけることで自覚します。自分の罪をしたから自殺を考えたのです。では、罪を償うために死を選ぼうとしたのでしょうか。これは、違うんですね。人間は自分を裁くような存在ではないとこの作品は言ってるのです。犯罪者が罪を裁かれるというのは、将也がいじめのターゲットになることで、既に描かれています。しかし、罪を罰によって裁くというのはこの作品において、作者が一番否定したい裏テーマなんです。では、なぜ将也は死を選ぼうとしたのか。それは、クライマックスの台詞から逆算するとわかります。ラストで、将也が硝子に「君に生きるのを手伝ってほしい」という言葉を伝えます。(この言葉には二つの意味がありますが、それは後ほど)そうです!将也の自殺は、生きる目標を失ったから選んだ結論だったんですね。これは、すごくリアルというか、よく人間を観察してるなーと思います。本来人間は自ら死んだりしないのです。意図せずして犯罪者となってしまった自分自身をどうして良いか分からない将也は、ただ、目標を失うのです。目標を失った結果が死だと考えてるんです。手話を覚えて、アルバイトをして母親にお金を返し、硝子に謝りに行く、それらは、罪を償う行為です。しかし、死は罪を償う行為ではないんです。自分に対してあらゆる罰を与えた後に、目標を失った結果自然に訪れるものだと将也は考えてるんですね。この作品において、自らに死を与えることは罰ではないのです。死は選ぶものではなく、どうせいつか死ぬという結果のひとつであり、何も選べなくなった人生の最後に自然に訪れる結末なのです。 ■石田将也はなぜ西宮硝子と再会して自殺を止めたのか? 結局、将也は硝子に再会したあと自殺をやめます。このあたりが、ちょっと分かりにくいところです。なぜ自殺をやめたのか?もし自殺が罪を償う行為や自らに与える罰なら、自殺をやめるというのはあり得ないんです。この再会ではお互い過去の出来事について何も解決してないんですが、それでも自殺をやめたのは、あらたな目標を得たからなんです。「人が生きる理由は正しい答えだけではない」この作品はそういうテーマを描いてるんです。硝子との再会で、将也は生きるための目標を得たと考えてもいいでしょう。ただし、この時点では罪は当然許されていません。そんな簡単なものではないんですね。むしろ、一生許されないという事実が明確になっただけなんです。再会のシーンでは、かなりあっさりと硝子が将也を許してしまうのですが、相手が許しても、償いきれない罪だったことを将也は理解したのだと思います。では、あらたに得た目標とは何だったのか……。罪を犯した相手に、あっさり許されたことで、罪の意味が、相手に対するモノから自分に対するモノへと変わったのです。ただし、表面的には飽くまでも、「硝子が許したとしても、硝子にたいして罪を償い続けること」が目標になっています。この時点では、本人も自分の中に罪が移ったことに気がついてないんですね。気がついてないというか、認められないという感じでしょうか。ちょっと話がずれますが、この作品はキリスト教的な表現を多数取り入れています。作者はおそらくキリスト教への信仰からそういった表現をいれた訳ではないようです。なぜかというと、大今良時先生はデビュー前に三作品ほど漫画を書いており、内容が魔女裁判ものだったらしいのです。キリスト教徒であれば、魔女裁判モノの漫画は書かないと思います。でも、たしかにキリスト教的な枠組みがこの作品にはあるんです。もしかすると魔女裁判モノを書いているときにキリスト教について調べたのかもしれません。公式ファンブックで、作者自らキャラクターにおちる影の形を意図的に十字架として描いたりしてることを解説しています。他にも、姉の娘の名前がマリアであったり、その父親がペドロ(イエス・キリストに従った使徒の一人ペトロから)であったりと、キリスト教的なモチーフが点在しています。これは、将也が自らの中に罪を背負ったという描写を強調するためにキリストがモチーフとなってると私は考えています。キリスト教をテーマにした作品ではありません。逆なんです。キリスト教から作品がうまれたのではなく、罪を背負った将也を描くためにキリスト教を持ち出してきているのです。このあたりが、レ・ミゼラブルと共通する部分でもあります。レ・ミゼラブルでは、ジャン・ヴァルジャンという主人公が神父の家から燭台を盗み出します。しかし、神父はそれをあっさり許すどころか、もうひとつの銀の燭台までもジャン・ヴァルジャンに渡すのです。実はヴィクトル・ユーゴーは、キリスト教徒ではないそうです。これは、ジャン・ヴァルジャンが、罪を自分の中に背負って生きると言うきっかけを作ったという描写なのです。「罪を許してもらったラッキー!」ではないのです。罰を受けることなく許された罪は自分が背負うことになるということを描いているのです。罰を受けることなく許されるというのは、この二つの作品に共通のテーマの一つです。 ■鯉にエサをやるシーンは何か特別な意味があるの? 鯉が泳いでる川にかかった橋のシーンは、様々な意味を持ってきます。公式ファンブックによると、作者にとって、鯉が何かを食べるというのは、象徴的な意味があることが語られています。将也が硝子にパンを持って二度目の再会に行きますが、これは、贖罪の象徴であると思われます。パンが重要な意味をもつこの描写に、パンを盗んだ罪で一九年のもの監獄生活をおくったジャン・ヴァルジャンを思い出してしまいました。キリスト教では、パンは「キリストの身体(肉)」、ワインは「キリストの血」を表しています。これも、また、将也が自らの中に罪を背負ったという象徴として描かれているのです。その自らの罪を鯉が食べていくのですから、象徴的な意味があるのは当然です。漫画でも映画でも鯉はやたらと強調されてて演出されています。なお、もう一つの意味として、鯉のいる場所が水中であるという隠喩表現があります。小学生のいじめのシーンでも校庭の池につかってずぶぬれになるシーンがあります。将也が返したノートを硝子が川におとしてしまって、川に二人とも飛び込むというシーンも象徴的でしたね。水中というのは、声が聞こえない世界です。つまり、硝子の世界でもあるのですが、それだけでなく、コミュニケーションが取れない世界の象徴としても描かれているんですね。これについては、もう明確に描いてあるので考察というよりも、よく考えて描いてある作品の証明でもあります。こういう普通に読んでも伝わらないような演出は、見ている人に無意識に何かを感じさせるモノなのです。映画や漫画を見て分からなかった人も、何だかこの作品は凄いぞ。って思うものなのですよ。 [→聲の形公式ファンブックはこちら!] ■いじめの加害者が、被害者に許されて恋に落ちるって安易じゃない? 映画が公開されて、こういった意見が多く出ました。加害者は絶対にゆるされるべきじゃないという意見ですね。ですが、この作品は、そもそも、罪は罰によって解消されるものではないというテーマであり、そもそも許されてないのですね。しかも、恋愛をメインテーマとして描いた作品でもないのです。「人と人が互いに気持ちを伝えることの難しさ」がこの作品の表のテーマです。しかし、裏にあるテーマは、「罪を犯した人間がどうやって生きていくか」が描かれています。この裏のテーマが、正にレ・ミゼラブルと共通する部分なんですね。しかし、これは冒頭にものべましたが、作者がレ・ミゼラブルのオマージュなどを作品に組み込んでるわけではなさそうです。そこがこの作者の凄いところで、意識的にも意味のある描写をしつつ、無意識的にも様々なものを作品に盛り込んでる部分なんですね。その決定的なエピソードが、硝子が将也に告白するシーンに現れています。硝子が声にだして「好き」と伝えたのが、将也に「月」と勘違いされるシーンです。夏目漱石が「I love you」を「月がきれいですね」と訳したのが元ネタだと多くの人が考察してたのですが、実は、公式ファンブックによると偶然だったというのですね。作者も申し訳ないと思ってると言ってます。レ・ミゼラブルとの類似点もこの偶然によって起きたのではないかと私は推測しています。ここから先は、レ・ミゼラブルとの比較をしながらもう少しだけ考察を進めたいと思います。 ■レ・ミゼラブルとの類似点多少強引ですが、聲の形とレ・ミゼラブルに登場するキャラクターと役割の近いキャラクターを比較してみました。聲の形とレ・ミゼラブルのキャラクター配置やテーマがすごく似てるのは、多分偶然なんですが、並べてみると想像以上に似てるんですよね。表面上のテーマやストーリーは全く違うのですが、裏にあるテーマが同じだから、必然的に出てくるキャラクターの役割などが似ているのだと思います。別に顔が似てるわけではありません。中には顔が似てるキャラもいますが、設定上のポジションの類似が原因でしょう。なお、聲の形を見て面白いと思った人で、レ・ミゼラブルを見たことがない人は是非見てみてください。漫画、アニメ、映画といろいろあります。きっと気に入って貰えるはずです。上記の図のように、驚くほどキャラクター配置が似てるんですね。ただし、これは作者が意図的に似せたモノではないと思います。むしろ、意識していたらもっと似せなかったと思うんですね。逆に無意識だったからこそ、レ・ミゼラブルとすごく似た構造やキャラクター構成が生まれたのではないかと私は推測しています。特に、聲の形が描かれた2007年(最初の投稿が2008年)には、世界名作劇場でレ・ミゼラブル少女コゼットというアニメが放送されています。もしかしたら、何の気なしに作者はそれを見ていたのかもしれません。そうでなくても、レ・ミゼラブルは映画や舞台などで、何度も作られていますので、どこかで見ていた可能性はあります。何となく意識に残るレベルだったのではなでしょうか。全く知らなかったとしたら、逆に凄いことです。しかも、先述の夏目漱石のエピソードから考えて、その可能性もゼロではないのです。罪を許された罪人が、自らの人生をかけて罪を償うというのがレ・ミゼラブルのテーマなのですが、これは聲の形の裏テーマとそっくりなんですね。同じテーマであれば、同じような構成になる可能性は十分に考えられます。20代にして無意識にヴィクトル・ユーゴーと同じ領域に達した…これは、正に天才のなせる技ではないでしょうか。 [→レ・ミゼラブル 少女コゼット 1はこちら!] [→映画レ・ミゼラブルはこちら!] [→コミック LES MISERABLES 1はこちら!] なお、ここで提示している比較は、同じようなテーマの作品において、同じような役割をもったキャラクターを比較することで、作品をより深く掘り下げるという試みで、元ネタとはちょっと違いますので、ご注意ください。そもそも、ストーリーなどは全然別の作品です。▼西宮硝子 = コゼット(+ミリエル司教)コゼットとは貧しさから母親と別れ、宿屋のテナルディエ夫妻に預けられる。夫妻や娘たちから召し使いのような扱いで日々こき使われるが、母ファンティーヌの「必ず迎えに来るから」と言う約束を心の支えに、つらい毎日を明るくけなげに生きる。純粋無垢で心優しく、心を許した他人に身をゆだねる、素直で明るい少女。硝子の天使性というか、全く主体性のない善の性格が、コゼットととてもよく似ています。いじめられているのに、全く相手を憎むことがないのです。これは、ジャン・ヴァルジャンや石田将也にとって、守るべき対象になるキャラクターだからそうなってるのです。なお、加害者と被害者という関係も同じです。石田将也ほど直接的ではありませんが、ジャン・ヴァルジャンも意図せずコゼットを不幸にする加害者となってしまいます。加害者にとって、この天使性は逆にまぶしすぎる存在だったかもしれませんが、それによって作品の持つ、罪を背負って生きるという部分がより強調されていくのです。こういう人間が実際にいるかどうかは分かりませんが、もしいたとしたら加害者にとっては一番つらい相手かもしれませんね。▼石田将也 = ジャン・ヴァルジャン(+マリウス?)ジャン・ヴァルジャンとは飢えた甥や姪を救うために一槐のパンを盗んだ罪で投獄されるが、何度も脱獄をはかったために一九年という年月を獄中で過ごし、心をすさませる。しかし、ミリエル司教との出会いによって人間性を取り戻した彼は、マドレーヌと名を変えて、やがてモントルイユ・シュル・メールの町で工場を経営し、人々から望まれて市長にまでなる。この作品の裏テーマは、石田将也という人間が罪を犯し、それを罰ではなく、許されることで、自分の問題として抱え込んで、やがて硝子や仲間と接しながら罪と自分に向き合っていくというものです。物語の最初でいきなり許されるのが、ジャン・ヴァルジャンと石田将也の共通点です。そして、決して罪からは逃れられず、コゼット(西宮硝子)の命を救うという役割も同じです。ジャン・ヴァルジャンも石田将也も、「罪を背負った自分と向き合って生きること」正にそういう作品テーマを背負ったキャラクターなのです。▼植野直花 = エポニーヌエポニーヌとはコゼットと同い年。初めはコゼットと仲良くするが、両親がいじめる姿を見て、コゼットにつらく当たり始める。コゼットに対して優越感を持つ反面、子供心に複雑なコンプレックスを抱いている。やがて両親とともにパリに出てマリウスに恋をするが、マリウスの目がコゼットしか見ていないと知って…。コゼットと「光と影」のような関係にある少女。多分、役割的にもキャラクター的にも一番そっくりなキャラクター。ちなみに、エポニーヌは、主人公のコゼットよりも人気があるそうです。そういう私もエポニーヌ派です。植野直花も西宮硝子をしのぐ人気があるそうです。石田には西宮ではなく植野とつきあってほしいというファンも多いのだとか…。すごく非道いキャラとも取れるのですが、真っすぐな恋愛感情と、複雑な自己への葛藤という魅力をもったキャラなのですよね…。▼川井みき = アゼルマアゼルマとはテナルディエ夫妻の次女。両親や姉にならってコゼットをいじめる。主体性が持てず、いつもその場で一番強いものに従ってしまうようなところがある。主体性なく、無意識のうちにいじめに荷担しているところ似てますね。▼島田一旗・広瀬啓祐 = テナルディエ夫婦テナルディエ夫婦とはモンフェルメイユ村の宿屋の主人夫婦。夫婦揃って限りない欲深さの持ち主で、常に人の足元を見ている。コゼットの母ファンティーヌをだまして法外な養育費を取り手元に預かるが、コゼットを使用人扱いしてこき使う。後に破産して一家でパリに出るが、そこでも狡猾に立ち回り悪事を働き続ける。島田達は、テナルディエほど悪人ではありませんが、ポジション的には最後までほぼ和解しないので、似ているといえば似ています。原作では、西宮硝子の親戚などがテナルディエのポジションに当たるかもしれません。▼竹内先生 = ジャヴェールジャヴェールとは牢獄ですさんでいたジャン・ヴァルジャンを刑吏として目にしていた頃からの因縁により、ジャン・ヴァルジャンを執拗に追い続ける刑事。職務に忠実であることを誇りとし、他人にも厳しいが自分にも厳しい。人間の本質は決して変わらないことを信じているが、ジャン・ヴァルジャンを追い続けるうちに徐々に葛藤が生まれてくる。教師という正しい立場にあり、正しいことを言いながらも、どこかおかしい…。正義の中にある不思議な気持ち悪さを象徴するキャラクターです。ジャン・ヴァルジャンの天敵というところが似ています。▼西宮結絃 = ガヴローシュガヴローシュとはテナルディエ夫妻の長子で末っ子。両親は娘たちばかりをかわいがり、ガヴローシュは乳児の頃から全く関心をもたれずに成長する。最初は誰にも心を開いていないが、子守を任されたコゼットにだけはだんだん心を開いていき、姉弟のように仲良く助け合うようになる。実の姉妹とは違いますが、姉弟という関係がすごく似ています。実は暗くうつろか心を抱いて生きてるところなんかがよく似ています。▼真柴智 = マリウスマリウスとは貴族の祖父に育てられたが、ナポレオン軍で戦った亡き父の思いを知ったことから、王党派である祖父に反発して家を出、苦労しながら法律を学ぶ。 成長したコゼットと出会って、恋をする。実はこのキャラクターは、そもそも余り物語とは関係ないし、西宮硝子と恋におちることもなく重要な役でもないのですが、顔が似ていますwイケメンという点が似ている。あと、真柴という名前の由来は、マという名前が似合うと思ったという証言が、公式ファンブックに記載されていました。何となく、マリウスをイメージしたという可能性はあるのかもしれません。▼永束 友宏 = アランアランとはジャン・ヴァルジャンが市長になった、モントルイユ・シュル・メールの町の少年。貧しさから盗みを働くが、ジャン・ヴァルジャンに助けられて生まれ変わっていく。ジャン・ヴァルジャンにとって彼を救うことは、過去に自分を救ってくれたミリエル司教への恩を返すことでもある。ジャン・ヴァルジャンの仕事の手伝いをするようになり、病気になったファンティーヌの世話をしたり、ジャヴェールからの逃走を手助けしたりする。ジャン・ヴァルジャンの不在後は、彼の仕事と意志を引き継ぐ。ジャン・ヴァルジャンとアランの関係は、将也と長束の関係とかなり似ています。ただし、キャラクター造型は全然にてません。これは、テーマ的にも手助けするキャラが存在しなければ物語が成立しないので、かなり必然的に同じようなポジションのキャラが生まれたと私は思います。▼佐原みよこ = オードリー少女コゼットのアニメのキャラと顔が似てます。偶然かな?▼石田美也子・西宮八重子・西宮 いと = ファンティーヌファンティーヌとは貧しさゆえに娘コゼット連れパリから仕事を求め田舎へとやってくる。途中出会ったモンフェルメイユ村の宿屋のテナルディエ夫妻にうまく丸め込まれてコゼットを預け、モントルイユ・シュル・メールの町でヴァルジャンの工場で働きだすが、女工仲間の嫌がらせを受け工場を追い出され、極貧の生活の中コゼットのために体を酷使し働き続ける。しかし無理な生活がたたり、やがて迎える死の床でコゼットをジャン・ヴァルジャンに託す。母親三人の描き方は、この作品の特徴です。レ・ミゼラブルにおいては、ファンティーヌの存在と似ていると思います。さて、今回の考察で、一番言いたかったのは、君の名は。のときに考察した、都市と星の構造を新海監督が作品に持ち込んだという話とはちょっと違います。都市と星との類似は、監督本人が語っているので、かなり確証が高いんです。しかし、最初に言った通り、レ・ミゼラブルと、聲の形は、比較するとテーマが共通でキャラクターの配置も驚くほど類似性があります。しかし、作者は一言もレ・ミゼラブルを意識したという話を公ではしていません。それに、夏目漱石の引用エピソードなどからも推測して、この類似性は、無意識の中で、共通のテーマを描いたことで発生したと私は考えています。この原作者である大今良時先生が、なぜこれほど完璧な作品を生み出すことができたのか?キリスト教を引用した演出はどんな意味があるのか?すべては、順番が逆なんです。作者が必死に、コミュニケーションと罪の話を描こうとした結果、レ・ミゼラブルほどの世界的な名作と同じ結果に到達したのです。映画版では、かなり洗練された構成になっているので、よりテーマがはっきりしており、将也の存在が、悩める十代というよりは、罪を背負って正しく生きようとする聖人のようにすら見えます。「君に生きるのを手伝ってほしい」というクライマックスの言葉は、告白とも取れますが、実は罪を背負って生きるという宣言でもあるのです。しかし、罪を背負うだけでは不十分だったので、この後も少しだけ話は続くわけです。そして、最終的に、仲間とのふれあいで、自分と向き合う決心をするのです。もっと細かい考察もたくさんあるのですが、それは、他の考察者や公式ファンブックにかなり詳細にかかれていますので、そちらにゆずるとして、最後に映画版のラストシーについて書いておきます。 私は、原作よりも映画のラストシーンが好きです。そこに描かれているのは、罪を犯した人間が許しを得ることで、その罪を自分でかかえ、そして、ついには、罪と向き合うことができたことを表現しています。その後も罪を許されることは決してありません。罪とはそういうものだとこの作品は言ってるのです。しかし、罪と向き合うことができたなら、周りの世界が見えるようになって、強く生きることができると言ってるのです。罪を罰によって裁くのではなく、罪を背負っていきるのでもなく、罪と向き合って生きること、それがこの作品のテーマなのだと思うのですが如何でしょうか? そう考えていくと、障害者のいじめという難しいテーマを描いてでも、この作品を発表する意味が十分にあったことが分かります。 聲の形は、感動ポルノなどではありませんし、障害者のいじめを告発する作品でもありません。もっと普遍的な人が生きる上での指標が提示されたレ・ミゼラブルのように、長く語り継がれるべき傑作のひとつであると私は思うのです。この機会に、この考察を踏まえて原作を読み直したり、映画を2回3回と見るのも面白いかもしれません。もし時間があれば、ぜひレ・ミゼラブルも見比べてみてください!両作品とも本当に奥の深い作品ですので見る度になにか発見があるかもしれませんよ。2016.10.16 09:23
東北きりたんのボイスロイドを買ってはいけない7つの理由 東北ずん子の妹である東北きりたんのボイスロイドが2016年10月27日に発売されます。この日は、東北ずん子発表5周年&東北ずん子17歳の誕生日でもあります。東北ずん子の企画メンバーとしては、とてもめでたい限りなのですが、浮かれてばかりもいられない事情があります。それは、この東北きりたんのボイスロイドに重大な危険性が発見されたからです。何の説明もなくみなさんがこの商品を手にとってしまっては大変なことになるとおもいまして、ブログで情報共有させていただく事にした次第です。 企画者である私の目からみても、ボイスロイド 東北きりたんはとても危険な商品と言わざるを得ません。もちろん、関係者としては商品が売れるに越したことはありません。ですが…それでも、やはりこの商品の危険性を訴えることは、私の義務ではないかと思います。わたしの口から東北きりたんを否定するような言葉を発することはとても辛いことです。しかし、ファンの皆様を偽ることはできません!!東北きりたんのボイスロイドで発見された7つの問題を断腸の思いで提示したいと思います。 1、ロリ◯ン化が止らない! コンプレックス増大の危険性! 東北きりたんが、11歳の小学五年生だというのはもう皆さんご存知かと思います。そんな、東北きりたんのボイスロイドを使用しすぎると、小学生女子への愛が必要以上に深まってしまう危険があることが発覚しました。しかし、実際の小学生女子と仲良くなれるわけではないため、大きなストレスやコンプレックスを抱えてしまう危険性があると考えられます。私の知り合いには、きりたんへの愛が深まりすぎて、小学校の教員になることを検討している人もいます。(しかし、東北きりたんが在籍するふるさと女学園初等部は、残念ながら現在教員の募集を行っていません…。) 2、きりたん砲の危険性! きりたん砲は、味噌を発射する能力をもった不思議なきりたんのお友達です。(正確には友達の「たんちゃん」をきりはなした残り部分です!きりたんはいつか「たんちゃん」に再会することを夢見ているのです!)きりたんのトモダチは、俺のトモダチ!トモダチの味噌なら、全身に浴びてもいい!そういう考えにいたる可能性を企画の段階で十分検討すべきだったのではないかと反省しています。「三段論法による論理の飛躍から、全身に味噌を浴びたくなる危険性があるのではないか?」という主張する人が世界中を探せば3人くらいはいるかもしれません。何を言ってるか自分でもよく分からなくなってきましたが、とにかく味噌を浴びるのはやめてください! 3、刃物の危険性! きりたんの頭部にある包丁のようなものは、ヘアーアクセサリーですが、その材質は包丁そものです。なお、このアクセサリーに隠れた後ろの髪はツインテールであることはもうご存知ですよね。それは良いとして、このヘアーアクセサリーは、ヘアーアクセサリーに見せかけたガチの包丁なのです! だから〜♪とっ〜ても♪とっ〜ても♪危険なんだよ〜♪つまり〜大きなお友達の中には〜♪すこ〜しだけ〜♪ 危ない人もいるかもしれない(ファンの中には居ないと思いますが)ので〜♪包丁で守ってるんだよ〜♪ 「悪い子はいねがー」「泣ぐコはいねがー」と奇声を発しながら練り歩くという、あのナマハゲと同じくらいの攻撃力をもっているんだよ〜♪ 4、ガンダムよりガンキャノン派になる危険性! きりたん砲は、ガンキャノンに酷似したシルエットを持っています。断じてガンタンク等ではなくガンキャノンです!その結果、ガンダムよりガンキャノンが好きになってしまう危険性があります。さらには、パイロットであるカイ・シデン。そして、カイと恋に落ちるジオンのスパイであるミハルにまでその関心が及ぶ可能性があります。さらに、ガンダム全話を何度も視聴して、ガンキャノンの登場回数や、登場時間の累計などを調査するに至っては、「もう、東北きりたん関係ないだろう!」と叫びたくなります。 5、引きこもり注意!警察へ通報される危険性! 「小学生なのに引きこもり」というきりたんの生活習慣に影響され、まともな社会生活が出来なくなる恐れがあります。きりたんは、ネットゲームやアニメの視聴などを中心に自堕落な生活を送っており、同人誌あさりや、姉(の太もも)への異常な執着など、健全な小学生女子とは言い難い存在です。ときどき、小学校にきちんと登校しているのか心配になります。心配になりすぎて小学校に侵入した結果、警察に通報されるという結果にもなりかねないし、私の知り合いなどは、警察への通報を回避するために、実際に小学校の教員になることを検討しているほどです。 6、自制心を持って使えますか?自制心崩壊の危険性! 東北きりたんは、ここだけの話ですが、姉とくらべても、ほとんどなんでもしゃべってくれるので、しゃべらせてはダメな言葉を使わせたい衝動が押さえられなくなり、社会的地位を引き替えにしてまで、欲望のままに危険な領域へ到達してしまう可能性があります。いったい何と戦っているのかわからなくなるほど、【言葉の新たな領域を見つけるための飽くなき挑戦】に人生を投じることになるのです。 7、それでも買いたくなる危険性! ここまでに危険を再三警告したにも関わらず、今も予約する紳士達があとを絶ちません。わたしは、この商品を企画した立場からも、商品が抱えている危険性を訴え、どうしても買うのが避けられないとしても、購入に至った場合において、少なくとも自制心だけは保ってほしいと願う事しかできません。そうですね…。これ7つ目じゃないので全部で6つですよね…。ええ…。6つです…。ほんとは11歳にちなんで11個の危険性とかやりたかったのですが、6個が限界でしたっ!6つの危険性を訴えるだけでも、わたしのライフはすでに0ですよ! 以上7(6)つの危険性について書きましたが、これらの危険性は十分注意したとしても、とてもではありませんが素人に回避できるレベルのものではありません。この7(6)つの危険性を理解したうえで、東北きりたんのボイスロイドを購入する紳士のあなたは、もはや東北きりたんのプロと言えるでしょう。再度念を押しますが、東北きりたんのプロとなる貴方には重大な社会的責任が伴います。プロとしての自覚をもって、正しいプロ東北きりたんライフを送ってほしいと心よりお願い申し上げる次第でございます。 [→危険な商品である東北きりたんボイスロイドはこちら] ※この商品の危険性は個人の感想として公開したものであり消費者庁への通報はご容赦下さい。 2016.10.13 04:37
君の名は。について、(たぶん)どこよりも詳しく解説してみました! 君の名は。について、(たぶん)どこよりも詳しい解説を書いてみました。君の名は。が、多くの人々の予想を超えてメガヒットしたせいで、「凡作が宣伝工作のお陰でヒットした」とか、「ヒットしたから連鎖的にヒットしただけで中身は無い」という説をとなえる人が増えてきたように思います。たくさんの人が見ているため「あそこの描写が不十分だ!」「ここに矛盾がある!」などといったツッコミも目に見えて増えてきました。 君の名は。は、全体的なあらすじはシンプルですが、細部には、初見では意図が読み取れないような謎の描写が多数あります。この作品は、表面上シンプルにみせかけつつも、実は裏にもっと深いテーマをもった作品です。予想以上にメガヒットしたせいで、逆に凡作認定されるというのも、なんだか忍びないと思いまして、私の分かる範囲で作品の裏に隠されたものついて分析してみました。これから、君の名は。を、2回、3回と観る人にとって、この作品が「宣伝工作による凡作のゴリ押し」ではなく、深みのあるバックグラウンドを持った歴史にのこるべき傑作だと言う事が、少しでも多くの人に広まってくれればと思います。 まず、前提としてこの作品がいわゆるSFではなく、SF的な枠組みをもった作品だということを理解する必要があります。どういう事かと言えば、新海さんにとってSFとはハードSFであり、一般の人に作品をみてもらうには、かなり噛み砕いて出さないと娯楽作品にならないという認識があったのではないかと私は考えています。(事実、新海さんは、かなりのハードSFマニアです。)いくらご自身がハードSFに精通していて、濃い作品が好きでも、それをメジャーな市場に出す作品として前面に押し出してしまえば、難解になりすぎて、たくさんの人に見てもらえない…と考えられたのではないかと思います。そのためハードSF的な科学的正しさは控えめな作品となっています。つくり手が意図的にハードSF要素を緩めに作った作品ですので、そこに突っ込むのは野暮というものです。 しかし、この作品は確実にSF的な枠組みを持っています。その枠組を作品に与えているのが、「2001年宇宙の旅」の作者、アーサー・C・クラークが書いた「都市と星」という小説です。なぜ新海さんは「都市と星」を枠組みとして採用したのかと言うと、実は重大な理由が隠されています。(これは後ほど解説します)「都市と星」を読んだことがある人なら分かると思いますが、「君の名は。」とは、テーマ性がちょっと違います。というか、決定的にある部分が違うのですが、そこが新海さんが一番強く言いたかった部分でもあります。また、他にもコニー・ウィリスの「航路」というSF作品からも、強い影響を受けたとインタビューで語っていらっしゃいます。さらに、都市と星には、内容的に呼応する作品がありまして、それが村上春樹の世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドという作品だったりします。この3つの作品と君の名は。の関係は、後ほど解説します。なお、1万文字ほどあるこの文章は、かなり詳細なネタバレを含んでいますので、未見の方は映画を観てから読んで下さい! 【小説版 君の名は。こちら!】 この作品では、糸守という架空の町が彗星によって壊滅します。その時の死者数が500人という数字だった事を疑問に思いませんでしたか?彗星で町が一つ消えたならもっと多くても良いはずです。そもそも糸守は架空の町ですから、人数は自由に設定できたはずです。この数字には理由というかモチーフがあります。 この作品を読み解いた批評で多いのが、「これは震災後をテーマにした作品だ!」というものです。これは、厳密には間違いではありませんが、実はちょっと違うのです。インタビューでも「震災を意識してないことはない」という感じで控えめに監督が語っていらっしゃるのが印象的でした。震災の影響はあったと思いますが、震災そのものを描いた作品ではありません。むしろ、12歳〜13歳くらいの体験からの影響が強いと、NHKでの川上未映子さんとの対談でおっしゃっています。 1973年生まれの新海監督が12〜13歳の頃といえば、1985年〜1986年です。この頃、世間では何があったのか?その頃新海監督が体験した事件が、この作品に強い影響を及ぼしています。当時の主な事件を少し列挙しておきましょう。他にもあるかもしれませんが、私は次の3つが大きな影響を与えているように感じました。・1985年8月 日本航空機123便墜落事故(死者520名) ・1986年 ハレー彗星が76年ぶりの地球接近 ・1986年1月 チャレンジャー号爆発事故 映画をみた人は、二回目に観るときにこれらの事件を重ねて観て下さい。といっても、若い方には、この事件がすでに分からないものかもしれませんね。新海監督と同世代の人は、気がついた人も多いかとおもいますが、上記3つは確実に重要なモチーフになっています。これは、コニー・ウィリスの航路とも少し関係しています。航路という作品では、タイタニックの事件と、ヒンデンブルク号の事件がモチーフになっています。航路のネタバレになりますが、航路という作品は、「人生が終わるときに人生のメタファーとしてそういった象徴的な事件を臨死体験として見る」といった感じのことをテーマにした小説なのです。新海監督自身が、子供時代に感じて影響された事件をモチーフにしたことで、これらの事件を知らない若者にとっても、どこかリアリティのある迫力を感じさせているのではないかと私は思います。 さて、君の名は。の大きな枠組みについて、だいたい理解してもらえたかと思いますが、もっと基本的な細部の疑問について解説したいと思います。なお、外伝についても少しだけネタバレしていますが、重要な部分は書いてませんので、もし興味をもった方はぜひ外伝小説を読んでみて下さい。航路、都市と星、世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドについても、作品解説のためにネタバレしていますが、発表からずいぶんたった作品なのでご容赦下さい。もし興味を持たれたら、ぜひ読んでみて下さい。新海ワールドがもっと楽しめるようになると思います。 ■なぜ、三葉と瀧の二人は入れ替わったのか? 男女の入れ替わりについては、監督がインタビューで「入れ替わりは物語の導入のための仕掛けであって、入れ替わりである必要は無かった」とおっしゃってます。しかしまあ、一応作中からわかるのは、三葉の祖先から伝わる巫女の能力に時空を超えて他人の脳に干渉できる力があるという設定です。その能力が、入れ替わりとして発動したという事になります。なお、発動条件は二人が実際に出会い、身につけていたもの等を相手に渡す事がトリガーになっています。はじめて二人がであったのは、作中時間軸の三年前に組紐を渡したとき(瀧と三葉がはじめて出会ったとき)です。卵が先か鶏が先かという話ですが、最初に物理的接触があったから、入れ替わりが生じたのです。しかし、その出会いの理由が入れ替わりですから、タイム・パラドックスが生じてしまいます。しかし、これは、「まだ出会ったことの無い誰かを探している」というセリフから推測するに、巫女の持っている予知能力のようなもので、「相手を知らないままに東京に行って出会ってしまう」という最初の接触が存在した可能性が示唆されています。瀧も三葉もおなじようにお互いを探していますが、実際には三葉の能力に感化された瀧という関係になっているわけです。つまり巫女の予知能力設定によってタイム・パラドックスは解消されるのです。このあたりの予知能力設定については、外伝小説に詳しく書かれています。この一見タイム・パラドックスに見えるエピソードがこの作品のもっとも重要なテーマであるところが面白いですよね。 ■なぜ最後に父親を説得できたのか?その描写が省略されているのは手抜きか? この部分はかなりぼかしてあるので、多くの人が疑問に思ったと思います。この明確な理由については、外伝の小説の中に詳細にかかれており、外伝を読む楽しみの一つでもあります。映画の中だけで分かるのは、三葉の中身が別人であることを、祖母と父親が見破ったという描写があるところです。巫女の入れ替わりの能力を二人は知っていたのです。とくに父親は、妻(三葉の母親)の死について、彗星となにか関係があることを悟り、(ほんものの)娘の話を信じたと考えられます。ちなみに、劇中から省略された理由ですが、外伝小説の一章をまるまる使うくらいの裏設定があるので、描く時間が足りなかっただけだと思われます。なお、外伝を読まないとまったく分からないという訳ではなく、おおよそ推測出来る程度には映画の本編でも描写されています。もっとも重要なエピソードは、タイムリープ中に瀧が見る「三葉の母親の死の光景」です。この作品について、何の代償もないし世界が救われるのはタイムリープものとして納得がいかない(説得力がない)という意見をツイッターなどでよく見かけます。本当に代償は無かったのでしょうか?作中から読み取れる最大の代償は、「三葉の母親の死に何か秘密があった」という部分に表現されています。特に「救えなかった」という父親のセリフが印象的でしたよね。本編では、代償のようなものはあったかもしれないという程度に描写されているという事です。外伝のネタバレをここでしてしまうのは野暮ですので、この作品の最大の謎になっている父親関連のエピソードについて知りたい人は、それだけで一本の作品として成立するほどの話が書かれている外伝小説をご購入下さい。(私は外伝を読んで泣きましたw外伝として傑作です!)【外伝小説 君の名は。Another Side:Earthboundはこちら!】■なぜ彗星は糸守に落ちたのか?また過去にも落ちたことがあるのか? おそらく過去にも糸守に隕石が落ちたと思われます。糸守湖が隕石湖であることをテッシー(坊主の兄ちゃん)が指摘するシーンがあります。しかしまあ、同じ場所に彗星が分裂して隕石となって落ちるなんて、まるでオカルトです。テッシーが、ムーを愛読しているのは、そんなオカルトを信じてしまっても不思議がない協力者として描写するためです。(なお、テッシーは監督自身を投影したキャラクターであり、監督自身が実際にムーの愛読者だったという話もインタビューでされていました。)しかし、現実にそんなことが起こるのでしょうか?リアリティがなさすぎではないでしょうか?いくらなんでもオカルトすぎる!という気持ちになった人もいるかもしれませんが、この作品はハードSFではありませんので、ここをリアリティの欠如として指摘するのは野暮ってものです。それでも、どうしても気になる人に解説しておくと、一応この彗星の正体を示唆する設定があります。外伝小説のタイトルですが、『君の名は。Another Side:Earthbound』というものになっています。Earthboundという英語の意味ですが、【〈宇宙船など〉地球に向かっている】という意味だそうです。外伝小説にも意味ありげにその辞書の内容が書かれたページが掲載されていますので、ここに特別な意味があることは間違いないでしょう。なお、彗星が人工物であることを説明した詳細なエピソードは、本編はもちろん、外伝小説の中にも出てきません。とは言え外伝のタイトルにするほどですから、あの彗星は人工物(宇宙船)であるという裏設定があることは間違いないでしょう。外伝小説には、糸守の巫女達が、太古の昔より彗星と関わっていたことが描かれていますが、宇宙船であるという裏設定は、もっと大きな時間軸に由来する設定だと思われます。それこそ数億年ぐらいの大きな時間の中での出来事だったのかもしれません。このあたりの大きな時間軸が存在する理由は、この作品が都市と星という小説の枠組みをもっている部分に由来するものです。このあたりは後ほど解説します。 ■なぜ、三葉と瀧は時空を超えて出会うことが出来たのか? 瀧が三年前に死んだ三葉を追って、口噛み酒を飲んでタイムリープするシーンがあります。これは、先にも説明したとおり、三葉の巫女の力によるものです。口噛み酒が三葉の持っている巫女の力を宿していたのです。なぜ、タイムリープが可能だという事に瀧が気がついたかというと、この口噛み酒を奉納したのが、入れ替わった瀧であり、結びの概念について、一葉から説明を受けていたからです。とまあ、このあたりは流石に普通に観ていても分かると思いますが、その後、別の時間にいた二人がなぜ出会うことが出来たのかというのは、やや分かりにくい点です。これは、カタワレ時という言葉から推測できます。この黄昏の時間は、あの世とこの世がつながる時間なのです。このカタワレ時は、夕日によって人の輪郭がぼやける時間であるため、人ではないものに出会うかもしれない時間とされています。このあたりの説明は映画の冒頭で、ユキちゃん先生によって行われています。また、御神体のある場所があの世の境であることも示唆されています。三葉が三年前に死んでいるからこそ、カタワレ時に二人は会うことができたという事にります。この作品のタイムリープは、巫女の精神感知能力によるものであり、SF的なタイムリープではありません。ですので、このあたりをハードSF的に突っ込むのは野暮というものです。人の心というのは、物質ではありませんので、時空を超える可能性は、SF的にもなかなかおもしろい視点だと思います。とはいえ、ふたりはカタワレ時に、組紐を返したり、マジックでお互いの手に文字を書くという物理的接触までしてますので、このあたりはやはり、見た目の印象重視の設定だったと思います。ロマンチックでいいじゃないですか!こういった描写に、科学的考証で突っ込むのはやめましょう!なお、外伝小説では、妹の四葉が口噛み酒によってタイムリープしてしまうエピソードが収録されています。 ■なぜ、二人は名前を忘れてしまうのか? 「夢は夢。目覚めればいつか消えてしまう。」という祖母である一葉のセリフがあります。じっさい夢の出来事は目が覚めると記憶から薄るれるものですが、もちろん、夢だって覚えてる事はあります。しかし、この作品の夢というのは、単なる夢ではなく、未来の危険(隕石の落下)を人に知らせるための巫女の特殊能力だと考えられます。そのため、もともと、宮水家の巫女には、関わった人から記憶を消すような特別な力があったことが推測されます。二人だけでなく、一緒に旅をした、友人の司や奥寺先輩の記憶も曖昧になっています。これは、外伝にもかかれてませんし、私の想像ですが、巫女のもつ力を隠すため(悪用されないため?)に、自らの記憶も含めて宮水に関連するすべての記憶を消す能力があったのだと考えられます。ラストに何度もすれ違いかけて、なかなか出会わない二人に、ドキドキしたりヤキモキした人も多いかと思いますが、この作品の最大のキセキは、巫女の能力でお互い忘れたはずの相手を思い出した(かもしれない)という所にあるわけです。なお、その後本当に二人が、お互いを思い出したかどうかは、外伝にもありませんし、真実は新海監督以外誰にも分からない事であり、そのまま思い出さなかった可能性もあるわけです。よく教育された新海誠ファンは、ハッピーエンドにもバッドエンドにもとらえることが出来ていろいろ楽しみ方があるわけです。ただし、今回、最大の代償は母親の二葉が背負っていますので、瀧と三葉の世代のエピソードは、ハッピーエンドだったと考えるのが正しいと私は思います。新海作品に見られるいつもの重いエピソードは、母親の世代が背負ってくれたのです。 しかし、このカップルを引き裂くような展開は、どうして新海監督作品のすべての作品で重要なテーマとなっているのでしょうか。これには、「都市と星」という小説が深く関わっています。基本的な疑問は解消されたと思いますので、いよいよ、君の名は。が隠し持っているSF的な枠組みと、なぜそれが組み込まれたかについて解説していきたいと思います。 ■都市と星と君の名は。の関係。アリストラの呪いとは何か? 都市と星という作品は、1956年にアーサー・C・クラークというSF小説界の巨匠によって書かれました。この小説をすごくざっくり説明すると、10億年後の遠い未来を描いたスケールの大きなSF超大作ということになります。主人公であるアルヴィンという少年(見た目は青年)は、とても好奇心の強い人間です。しかし、この10億年後の地球は、かつて銀河を支配した人類がすでに衰退したあとの地球であり、人類は宇宙を捨て地球の一つの都市に引きこもって暮らしています。とまあ、このあたりのスケールの大きな部分を話すとキリがないので、この作品が持っているもうひとつの側面を話したいと思います。すばらしい、SFの最高傑作にもあげられる本作品ですが、思春期に読むと、ある設定に違和感を感じます。おそらく新海さんもその設定がトラウマになったクチだと思います。それを、わたしは「アリストラの呪い」と呼んでいます。 アリストラとは、都市と星にでてくるヒロインの名前です。はっきりっ言って、このヒロインは美少女アニメの主人公であれば、ほぼ完璧な存在です。健気で可愛くて聡明で少しツンデレなところもある幼馴染の美少女なのです。しかし、なんと、あろうことか、彼女は、物語の3分の2くらいのところで滑り台をかけおります。しかも他のヒロインに負けたとかではなく、設定上の都合で消え去るのです。例えて言うなら、めぞん一刻を読んでいて、3分の2くらいのところで、管理人さんが出てこなくなって、五代と三鷹の友情の話が最終話まで続くようなものです。一応補足しておくと、意味もなくそんな事になるのではありません。 都市と星の世界では、人類は不死を実現しています。愛情というのは、哺乳類がもつ特別な感情と作者は定義しており、不死を実現した人類には、男女の愛は不要だと言っているのです。そのあたりを踏まえて、都市と星のストーリをもう一度違う視点から説明すると好奇心旺盛な少年が、幼馴染の少女を置き去りにして、電車にのって田舎へ旅にでます。そのとき、田舎で出会った人々の価値観に影響され、元の町に戻った時に、価値観の違いから幼馴染の彼女をあっさり捨てます。その後主人公は自分の目的を果たしますが、元カノには二度とあうことはありませんでした。 とかいうあらすじになります。この価値観というのは、SF的には、不死の人類と死を受け入れてきた人類の価値観の違いという形で描写されています。不死の人類は、子供を生むことがありません(作中ではへそがないと表現されています)。不死を実現した人類は、データとして肉体を保存し、ゼーガペインみたいな感じでデータから肉体を再現させます。セックスだけは形骸的にのこっていますが、そこに子供を生むという意味がない以上、特別な愛情は希薄になっているのです。その事実を、まだ子供を生む能力を有し、死を受け入れている外の世界に住む人々と出会うことで、アルヴィンという主人公は、ヒロインに対する興味を失ってしまうのです。SF上の設定とは言え、なんともセツナイというとか、もはや呪いに近いほどのトラウマ設定です。そんな、アーサー・C・クラークについて新海さんが日記に少し書いていらっしゃいます。 ■それから。アーサー・C・クラークが亡くなったのですね。いつかはそういう日が来るというのは分かるのですが、でもとても残念です。僕は中学生の時にテレビの深夜放送でたまたま『2001年』を観て、そこで描かれていることの意味をどうしても理解したくて、クラークの小説版を何度も読み返しました。『太陽系最後の日』や『幼年期の終わり』や『都市と星』や『宇宙のランデヴー』、そういった作品群を初めて読んだときの興奮は今でも覚えています。僕の「ほしのこえ」という作品の英語タイトルである「The voices of a distant star」は、クラークの『遙かなる地球の歌 The Songs of Distant Earth』からいただきました。そういえば「秒速5センチメートル」のロケハンで種子島に滞在していたときに、僕は毎晩寝る前に『都市と星』を読み直していました。砂漠に哀しくも雄々しくそびえるダイアスパーの塔。その姿は今でも強い憧憬の対象です。 (2008年3月20日の日記より引用) 注目すべき点は、「秒速5センチメートル」を作ってる時に、何度も都市と星を読み直したという部分でしょう。都市と星をアリストラ視点から見た時のあらすじを先程提示しましたが、これって、「秒速5センチメートル」にそっくりじゃないですか? そうです!新海監督が、アーサー・C・クラークに影響を受けた部分が一番色濃く反映されているのが、アリストラの呪とでも言うべき、トラウマものかつ、鬱な展開の部分にあったのです。 それでは、具体的にアリストラが最後どうなったか、小説の引用で観てみましょう。 ====新訳版 都市と星 本文より引用 アリストラは、去っていくアルヴィンの背中を見送った。さびしくはあったものの、もう胸がつぶれそうなほどの悲しみに苦しむことはなくなるような気がした。いまならわかる。自分はアルヴィンを失うわけではない。なぜなら、いまだかつて、いちどたりとも自分のものだったためしがないからだ。その事実を受け入れるとともに、けっして報われない愛を失うことへの悲しみから、アリストラは脱けだせそうな気がした。 ===== クラーク特有の皮肉がきいたまわりくどい描き方になってますが、ようするに滑り台(ヒロインの戦線離脱)です。これが終盤ならまだわかりますが、物語を三分の一ほど残して、ヒロインであるアリストラはこの後一切出てきません。新海さんが都市と星にこだわっている理由は、この作品がSFとして素晴らしいというだけでなく、このアリストラの呪にかかって、それをとくために作品を作らなければならない状況に追い込まれたという理由があったのではないでしょうか。秒速5センチメートルでは、アリストラの呪をとくことができなかったどころか、そのまま、バトンを渡すように視聴者に呪をかけてしまいました。「なんで恋愛ものであんなに非道いバッドエンドをつくるんだ!」と怒った人も多かったと思いますが、あの元ネタは、アリストラの呪によるものだったのです。そして、今回の作品ではその呪がついに解消されます。それは、単に解消されるだけでなく、同時にこの作品には都市と星へのオマージュがたっぷりと詰め込まれることになりました。 まず、最初にわたしが気がついた(気になった)セリフがあります。 「東京だっていつ消えてしまうかわからないと思うんです」 ラストの方で、瀧が就職活動の面接で言うセリフです。多くのひとは、これを糸守の記憶や、震災へのオマージュだと思ったのではないでしょうか。しかし、そう受け止めるとやや不自然というか、不謹慎なセリフにも聞こえます。実はこのセリフは、新海さんなりの都市と星へのオマージュだったのではないかと私は考えています。都市と星では、人類は歴史上はじめて、永遠に滅びない都市の建造に成功します。しかし、それは、もともと都市というものは、いつか消えてしまうものだという前提があって出てきたSF的な夢なのです。逆説的に考えれば、どんな都市もいつかは消えるというのは、都市と星のテーマそのものなのです。 それを踏まえた上で、いろいろと都市と星と君の名は。に構造的な類似点を見出す事ができます。まず、東京と、糸守ですが、これは、都市と星におけるダイアスパーとリスです。ダイアスパーは不死の人がすむ都市で、リスは昔ながらの暮らしをする人が住む田舎です。リスは田舎ですが、この10億年でダイアスパーの人とは違った進化をしており、テレパシーで人をあやつる能力をもっています。そうです、糸守の巫女の能力は、リスの人がもっているテレパシーの能力が元ネタになっています。さらに、御神体のある場所ですが、これも都市と星に似た場所がでてきます。糸守の御神体がある場所ですが、都市と星では、リスの近くにあるシャルミレインという聖地のような場所に相当します。シャルミレインも糸守の御神体も同じように、外輪山に囲まれた場所なのです。このシャルミレインは、都市と星では、かつて人類が宇宙の外敵と最後の戦いをした伝説の場所という設定になっています。しかしその真実は、地球に落下してきた月を破壊するための兵器があった場所という事が後になってわかります。 そうです!糸守に落ちる隕石の元ネタは、都市と星における月の落下だったのですね。ストーリー的に、都市と星と君の名は。はそれほど似た作品ではありませんが、舞台やSF的な設定にかなりのオマージュが見受けられるのです。 8.26公開『君の名は。』新海誠監督インタビュー最終回/強烈な「ロマンチック・ラブ」に憧れがあるんだと思います... 都市と星については、こちらのインタビューでも言及されていますので、偶然の一致ではなく、確実にオマージュとして意図的に設計されたものだと思われます。なお、先述した彗星の正体が宇宙船だという説ですが、都市と星のオマージュだと考えると納得がいきます。都市と星では、主人公のアルヴィンが宇宙船にロボットをのせて、人類を置き去りにして旅立っていった片割れの人類に会いにいかせるというエピソードがあります。そのとき主人公のアルヴィンは、旅立った人類に出会って真相が分かったらまた地球に戻ってくるように、ロボットに命令をだすのです。この命令を受けた宇宙船が、彗星の正体だったのではないかと私は考えています(詳細な部分は私の個人の妄想ですが、都市と星のオマージュによって、彗星=宇宙船という設定にした可能性は高いと思います。) 【都市と星の小説はこちら】 さて、新海さんのインタビューでは、「航路」という作品も言及されています。この作品は、都市と星とは違った意味で、君の名は。に影響を与えています。しかし、この「航路」がとても面白いSFであることは間違いありませんが、なぜ新海さんの心に特別に刺さったのでしょうか。実は、この航路のまえに、押さえて置かなければならない重要な小説があります。それが、村上春樹の世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドという作品です。世界の終わりと…は、簡単に言うと、「人の脳内にある空想の世界」についての物語です。現実に存在する世界ではなく、人の脳内にだけ存在する世界について書いた作品なのです。ゆえに、この作品をセカイ系の最初の作品と位置づける評論家も多いのです。そして、とても重要な事ですが、この作品は先程紹介した都市と星とすごく類似点が多い作品です。なぜかというと、人が作り出した完璧な都市であるダイアスパーと、人の脳内につくられた完璧なセカイが非常に似ているからです。これは設定的には、偶然ではありません。なぜなら、都市と星の元ネタが、ラブクラフトの「狂気の山脈にて」というロストワールド系SFから来ており、世界の終わりと…も、同様にロストワールド系SFがベースにあるのです。(世界の終わりと…では、一角獣が重要な存在として出てきますが、一角獣がもし実在したならロストワールドのような場所に違いないという推測が出てきます。)なお、余談ですが、進撃の巨人もこの二つの流れを組む、ロストワールド系SFだと考えられます。世界の終わりと…が画期的というか、天才的だったのは、このロストワールド系SFを、人間の脳内に配置したところにあります。そして、新海さんは、この脳内のセカイについて、ダイレクトに影響を受けた作品も作っています。それが、雲の向こう、約束の場所という夢をテーマにした作品です。宇宙が見る夢というSF的な設定をもったこの作品は、人間の脳内にあるセカイとロストワールド系SFがつながっているという解釈をベースにしながら、さらに平行世界の概念を足したものになっています。それらをふまえて「航路」という作品について説明したいと思います。この作品は、臨死体験をテーマにしたリアルな医学的描写が特徴のSF小説です。臨死体験は人間の脳が作り出したものに過ぎません。これはまさに、世界の終わりと…で示された、脳内セカイをテーマにした話なのです。しかし作中では、医者である主人公自ら臨死体験を疑似体験します。その臨死体験があまりにもリアルだった事から、臨死体験で人が見る場所は現実にある場所かもしれないという仮説が提示されます。最終的にどういった答えが提示されるかは、ぜひ小説を読んでみて下さい。この小説の結末と君の名は。はそれほど似たものではありません。しかし、途中で仮説として提示される脳内セカイ=現実にある場所というアイデアは、君の名は。に、大きな影響を与えたと思われます。君の名は。における、外輪山に囲まれた隕石湖というのは、ロストワールド設定のオマージュから生まれた世界観です。君の名は。は、夢でつながり、現実に存在したセカイとつながるという話です。これは、都市と星をベースにしながら、世界の終わりと…を意識しつつ、航路のアイデアを一部導入することで生まれた、まさに、ロストワールド系SF(セカイ系の大元)の最終完成形作品と言えるのでは無いでしょうか。 【航路の小説はこちら】 一つ補足になりますが、これはもう有名な話かと思いますが、新海作品に、新宿が出てくるのは、新海さんが新宿に住んでいるからです。しかし、なぜ新海さんは新宿にすんでいるのか?それほどまでに、新宿がすきなのか?というと、村上春樹作品に新宿がよくでてくるからなんですね。さらに、言の葉の庭でも舞台になっている新宿御苑は、世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドにでてくる架空の脳内セカイの地図の元ネタなんです。 【世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドの小説はこちら】 まとめると…。新海さんが小学生時代に体験した強烈な事件の記憶(航路という小説でも事件の記憶がテーマになっていること)、都市と星におけるヒロインであるアリストラの呪い、村上春樹が描いてきた新宿という街。そして今まで脳内にあると思われたいた理想のセカイ(田舎)が、実際にあったというセカイ系と現実との融合(セカイ系のロストワールドへの回帰)。これらが複雑に絡み合ってうまれたのが君の名は。という傑作だったのです。以上、かなり長文になりましたが、 「君の名は。は、大衆を騙す宣伝でヒットしただけの軽薄な作品に違いない!という頭の弱い評論家に騙されないようにしよう!」というお話でした。 君の名は。には、誰にでも楽しめる分かりやすい表面上のプロットと別に、奥の深い設定や、SF史的にも意義の大きな作品構造としての新しさが存在しているからこそ、これだけ多くの人に支持されているのではないかと私は思っているのですが、いかがでしょうか? 2016.09.25 18:00